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3.前世の記憶
ベルフォール公爵邸から帰ると、父が恐ろしい形相で待っていた。
編入試験についてはエリザベートから話してくれると言うので一先ず伏せ、「何を話したんだ」、「何故あんな事をした」と探りを入れられたものの、カレンに熱がある事が分かり、お叱りの時間は早々に終了となった。
何とか湯浴みを済ませ、カレンは、ベッドに深く沈み込む。
そして、まるで記憶を整理するかのように、遠い昔の夢を見た……――。
◇◇◇
前世での二人の出会いは、ありふれたものだった。
アルバイト先の喫茶店。BGMにジャズが流れるその店の、先輩と後輩。
当時の彼――青山一樹は、大学院生。
カレン――橘花蓮は、声楽科の大学生。
彼は地層や鉱物を専門に研究を続けながら大学の教員を目指し、花蓮はジャズシンガーを目指していた。
黒い髪に日に焼けた肌、引き締まった理知的な顔立ちと物静かな雰囲気。
格好いいのに一見ぶっきらぼうで、堅物な彼の素朴さや優しさに惹かれ、花蓮はあっという間に恋に落ちた。
こっそりシフトが被るように調整し、右往左往、一喜一憂しながら二年間の片思いを経て――いつの間にか、どちらからともなく、引き寄せ合うように口づけを交わした。告白のような言葉は、なかったように思う。
キスの後の彼の真っ赤な顔は、いつ思い出しても胸がときめいた。
それぞれが夢を追い、励ましあいながら花蓮も順調にジャズシンガーになる夢を果たしていった。そこそこ名が知られるようになり、すぐに多くの舞台に呼ばれるようになる。
けれどその反面、二人の時間はすれ違っていった。
声さえ聞く事の出来ない日々が続き、『もうダメなんじゃないか……』と不安に苛まれていた時――彼は駆け付け生涯を約束してくれた。
(その時、私が本当に望んでいるのは、彼との穏やかな生活だと気が付いて仕事を抑えるようになったのよね。両親には反対されたけど……元々彼らとは考え方も違ったし、心の通い合った親しい人達だけを式に呼んで、本当に幸せだった……)
微睡みの中で――前世の自分を見つめる。
今では考えられないほどに、本当によく笑っていたように思う。
子ども達が生まれてからは、より一層。
時に意見の行き違いもあったけれど、それさえも彼をより愛する為のステップだったように思う。けれど、そんな幸せな結婚生活にも転機が訪れた。
(……そう、そうだわ。彼がフィールドワーク中の落石事故で片足が不自由になって……彼の生活を支える為、夜呼ばれる事が多い歌の仕事は完全に辞めたんだ。パートをしながら子ども達を育てて、五十歳になる年、病気で……)
最期の方の記憶は曖昧だった。
花蓮の生涯は、そうして終わってしまった。
胸が締め付けられるような悲しみと、子ども達に――彼に会いたい気持ちが溢れ、目を覚ませば、瞳から一粒涙が零れていた。
部屋の中はほんのり明るい。
日の傾きから見て、まだ明け方だろう。
熱はすっかり下がったようで、若干の疲労感はあるものの体も頭もスッキリとしていた。
カレンは、むくっと体を起こし、自分の胸に手を当てる。
ドク、ドク、と心臓が脈打ち、胸の奥から温もりが湧いて来る。
花蓮とカレン。二つの人生が混ざり合い、今一つになろうとしていた。
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