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4.救いのヒーロー
エリザベート宛にレジナルド・デューフォール博士から返事が届いたのは、翌週の事だった。編入試験は、三か月後。最終学年への入学となるので、試験内容は勿論、一般の入学試験よりも数段難しくなっていると書かれていた。出題範囲もかなり広い。カレンは、寝る間も惜しんで勉強した。
父ダグラスは、最初こそ「何故、私に何の相談せずに決めて来たのだ!」と声を荒らげたが、エリザベートが仲裁に入ってくれた為、やがて口を閉ざした。そもそも、編入試験合格さえカレンには無理だと思っていたのかもしれない。
あくる雪の日、カレンは試験に挑み――そして、合格の通知を受け取った。
ダグラスは最後まで難色を示していたが、『喪女』だ何だと言われていたカレンが『さすがは侯爵家の娘だ』ともてはやされるようになり、もう何も言えない様子だった。
そうしてカレンは、アカデミーへの入学を果たした。
◇◇◇
アカデミーで学ぶのは、自らの専攻科目だけではない。
留学に際して、我が国の恥とならないよう他国語、文化、歴史、教養など多岐に渡る。さすが最難関なだけあり、どれも非常にレベルが高く、進度も早い。
そして、何よりカレンを悩ませたのは……――。
「……あの、午後の授業の場所なのですが……」
「…………」
声を掛けた男子生徒が、カレンの声など聞こえなかったかのように席を立ち、背中を向け去っていく。彼だけではない。学院の誰もがこの調子で、カレンをまるで空気のように扱った。
入学したばかりのカレンには、わからない事も多い。その為、わからない事はわざわざ学術棟を出て、出入り口に程近い職務棟にまで出向かなければならず、走って何とか次の授業に間に合うという事も少なくなかった。
開始五分前には着席する優等生ばかりの中で、カレンのその様子は酷く浮いた。
教員達に良く思われるはずもなく、冷たい対応をされる事も多くなっている。
さらには……――。
「――……男漁りにでも来たんじゃないの?」
通りすがる女生徒達の声が耳に届く。
振り向けば、彼女達は楽しそうに談笑して足早に去ってしまった。
(…………地味に、痛い……)
特別に用意された編入試験。その合格者を疑ってしまう彼らの気持ちもわからなくはない。けれど、その集団心理が地味に怖い。
しかし、成績を落とせば留学の切符は手に入らない。
カレンは仕方ないと溜息を吐き、次の授業の場所を尋ねる為、足早に移動を始めた。
◇◇◇
午後の授業は、どうやら小ホールで行われるようだ。
小ホールは、サイドのガラス戸が大きく開き、外から中の様子がわかるようになっている。午後のこの時間は、選択授業により暇を持て余している生徒も多い。他科の生徒達にも観客になって貰い、実戦形式で演奏をしてみようという趣旨のようだ。
(……問題は、ペア以上でセッションを組まなければいけないという事なのよね)
優秀な歌い手は、勿論どんな演奏家達とだって息を合わせられなければいけない。
けれど、人々から遠巻きにされているカレンには、ペアになってくれそうな者がいない。この授業を担当しているリュシュリュー子爵は、当初からカレンの存在を快く思っていなかった。勿論、助け舟など出すつもりもないだろう。
席に着いて授業の開始を待っていると、外に生徒達が集まって来ているのが見える。その中に――レニエがいた。
レニエは、カレンと目が合うとにこやかに手を振り、どうやら手招きしているようだった。授業開始まで、まだ数分ある。ここで彼を無視すれば、またどんな噂を立てられるかもわからない。婚約の一件以降、極力関わらないようにしてきたのに。仕方がないと、そっと小ホールの裏に出た。
「やあ、カレン」
「……ごきげんよう。ごめんなさい。もう授業が始まるの」
レニエの後ろには、先程まで彼と共にいた数名の男子生徒と、桃色の髪が特徴的な一人の女子生徒がいた。彼女は、カレンが留学を希望している隣国ルメリアからの留学生――ルメリア王国第三王女イザベラだ。
アカデミーに女子生徒の数は多くないので、要人に至ってはすぐにわかる。
とても苦い顔でカレンを見ている様子を見るに、恐らく、またレニエの悪い癖が出ているのだろう。
待たせている彼らを気にするでもなく、レニエは続ける。
「困っているんじゃないかと思ってね。良ければ、助けてあげようか?」
「……どういう事かしら?」
「アカデミーでは身分に関わらず接するようにと校則があるけれど、実際にはそうもいかない場面の方が多い。僕がこの中の誰かにお願いすれば、君はすぐにでもペアの奏者を手に入れられると思うよ?」
カレンは、グッと喉を詰まらせる。
リュシュリュー子爵は、性格こそ悪いけれど音楽の世界では先を行っている。
この授業で落第の印を押されたら、確かに今後影響が出るかもしれない。
でも……――。
「――折角だけど、お断りするわ」
「え?」
まさか断られるとは思っていなかったようで、レニエが大きく目を見開く。
カレンは、口元を微笑ませて言った。
「ここで貴方に頼ったら、それこそ自分の意志を貫けない気がするの。私は、お父様の手を逃れようとしているのよ? こんな苦難……きっと、これから幾らでもあるわ。私は、環境の所為にして、自分の未来を諦めたくはないの。その為ここに来たんだもの」
授業開始のベルが鳴り響く。カレンは、踵を返しながらレニエに告げる。
「それにきっと――誰も、私の歌について来られないわ。私が歌うのは、この世界にはない、新しい歌だから」
カレンは、レニエをその場に残し、急いで席に戻った。
一人、また一人と名前が呼ばれ、いよいよカレンの番がやって来た。
「では、次はルブラン嬢。前に出なさい」
「……はい」
白い小ホールの奥に浮き上がる、黒いグランドピアノ。
カレンは、呼吸を整え、背を伸ばして前に進んだ。
(……一人弾き語りでも、良いじゃない。ジャズの醍醐味だわ)
もう少しで壇上につくというその時――ガチャリと小ホールの扉が開いた。
リュシュリュー子爵が慌てて立ち上がり、入室した人物を出迎える。
「――アカデミー長!」
(え……)
驚いて後ろを振り返ると、そこには金色の髪を緩く束ね、長い藍色のローブを着た背の高い男性がいた。
「このような所まで、お珍しい。いかがされましたか?」
「……隣国から今戻りましてね。アカデミー内を見て回っていたら、実戦形式の授業が開催されると伺いました。見学をして行っても?」
「それは、勿論! 光栄にございます!」
レジナルド・デューフォール――涼し気な声で淡々と告げる。丁寧な口調だが、その顔は何を考えているのかわからない程、無表情だ。彼は、カレンの前まで来てピタリと足を止める。暫し、二人の視線が絡む。
(……やっぱり……一樹さんだ)
眼鏡に隠された水色の瞳の奥に、懐かしい面影を感じ取り、ドキドキと胸が高鳴る。けれど、彼の方は表情を変える事なく、よく通る低い声で告げた。
「――君が、例の編入生か?」
カレンは、その言葉ではっと現状を思い出す。
一歩下がり、カーテシーにて返事をする。
「はい。カレン・ルブランと申します。入学に際しましては、格別な対応心より感謝申し上げます」
「格別な対応か……アカデミーに二年通った者と同じ扱いをせよと言われ、何を馬鹿なと嫌がらせのように難しい試験にしたのですがね。まさか合格するとは思いませんでした。余程、努力したのでしょう――入学、おめでとう」
「……あの、ありがとう、ございます……」
カレンは、じわりと熱くなる目元を隠し、掠れた声で礼を言う。
言葉こそ皮肉だけれど、カレンではなく、周囲の生徒に聞かせようとしているのがわかったから。カレンの為に。恐らく目論見通り、生徒達が俄かに騒めく。
「聞いていた話と違うな」と。「不正入学じゃなかったのか?」と。
レジナルドは、すっとピアノに視線を移す。
「歌を?」
「はい。声楽を専攻しております」
「そうか――奏者は、もう決まっておりますか?」
「……いいえ。実は、まだ……」
この現状を、彼に知られるのが恥ずかしい。
顔を赤らめて俯いていると、思わぬ提案を受けた。
「ならば、私が弾いても?」
「――え?」
弾かれたように顔を上げる。レジナルドは、リュシュリュー子爵に声を掛けた。
「教師が弾いてはいけない規則でも?」
「え! い、いえ……課題は、奏者とどれだけ息を合わせられるかという事と、声楽の技量そのものですので……」
「なら、問題ありませんね。生憎、私は音楽の専門家ではありません。貴方の足を引っ張ってしまうかもしれませんが、ピアノは好んで弾いております。お手合わせ、願えますか?」
レジナルドは、エスコートの為カレンに手を差し出す。
カレンは、そっとその手を取った。
思っていたよりもずっとこの状況に緊張していたようで、繋がれた手の温もりに、心が解れていくのがわかった。
「――光栄でございます」
膝を折り感謝を伝え、二人壇上に上がる。
どんな旋律を歌うか軽く打ち合わせをし、それぞれの定位置についた。
歌い始める前、一度だけアイコンタクトを取り――カレンは喉を震わせた。
(……前世では、演奏なんて出来なかったのに。彼はもしかしたらずっと、私の事を、覚えていてくれたのかしら……)
再会出来た喜びと、期待する気持ちがそのまま声に宿り、声が弾む。
彼を想う気持ちが、深く歌を彩った。
ときめく心と込み上げる熱が、人々に伝播する。
萎んでいた自信がいつの間にか蘇り――この時、間違いなく誰もが、彼女の美しさに惹き付けられた。
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