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5.嘘?本当?
その後、カレンの生活環境は大幅に改善された。
以前のように無視される事もなくなり、むしろ、ジャズを教えて欲しいと言う生徒が集まって、ピアノの他にサックスやトランペット、クラリネット、コントラバス、ドラムなどバンドが組めそうな程になった。
アカデミー生活を楽しむ普通の女子学生になれたような気持ちだった。
けれど、そんな中で一つ、予想外の事があった。
「――……覚えて、いない?」
「……ええ」
目の前の彼は、涼し気な表情を変える事なく、コーヒーの入ったカップを片手に頷く。カレンは、思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
カレンとレジナルドは、アカデミー長室にいた。
レジナルドに「話がある」と呼び出された為、つい、前世の話かと思い込んでしまった。それでも、口から心臓が飛び出してしまいそうな程緊張して、前世の事、二人が夫婦だった事を話したのに――先程の言葉が返って来た。
「でも……」
先日のセッションでの、レジナルドのピアノを思い出す。
あれは、明らかにジャズを聴いた事がある者の弾き方だった。
カレンは、もう一度期待を込めて尋ねる。
「何も……一つも、覚えていませんか? 子ども達は、女の子と男の子で、二人共とても可愛くて……。私は、前世でも歌を歌っていて、貴方も、今のように研究者をして、いて……」
彼の表情が優れず、言いながら少しずつ気持ちが沈んでいく。
あの愛しい思い出が自分の中にしかないのだと思うと、たまらなく寂しい。
それに、本当に覚えていないのだとしたら――カレンは今、急に『私達は前世夫婦だったの』と迫る、頭の可笑しい女ではないか。
どうしたらと困惑して視線を彷徨わせていたら、ふと彼の様子に気がつく。
ぎゅっと眉根を寄せ、ソワソワと手元を忙しなく動かしている。
カレンは、その様子に見覚えがあった。
「……母の日」
「……は?」
前世、母の日に彼は子ども達と揃ってサプライズパーティーを用意してくれた。けれどその日、花蓮が予定よりも早く帰宅してしまい、彼は普段つかない嘘を吐いて懸命に誤魔化そうとしていた。その時と、同じ仕草だった。
じっと見つめるカレンの視線から逃れるように、レジナルドがテーブルの上に視線を走らせる。カレンは、咄嗟に手元にあったミルクの壺を渡した。
「どうぞ」
「すまない」
「「…………」」
レジナルドは自然な仕草で受け取るが、はたと動きを止める。
コーヒーを半分ほど飲んで、ミルクを加えて味を変えるのは前世での彼の癖だ。
ほんの一瞬ではあったが、動きがぎこちなくなったような気がする。
どうにも怪しい。
「……本当に、覚えていらっしゃらないんですよね?」
「……本当です」
再び伏せられる目と、皺の寄る眉間。
けれど、彼がここで嘘をつく理由は何だろう。
一番考えたくないのは、『今世まで同じ人間と夫婦になりたくない』という事だ。
その可能性に気がつき、カレンが青褪めて震えていると、レジナルドは「おほん」と一度咳ばらいをした。
「その話は、一先ず置いておきましょう」
「……置いておく、の、ですか?」
「今日呼び出したのは他でもなく、貴方の留学の件に関してです」
レジナルドは、カレンの前に幾つか資料を広げる。
それには、留学に関する規約などが書かれているようだった。
「ここが王立アカデミーである以上、留学の費用は公費になります。私は、国を挙げて他国に推す事が出来、さらに知識や技術を身に着けて是非とも我が国に帰って来て欲しいと言う人材を選ばなければいけません」
「……」
彼の難しい表情から、次に何を言われるか予想出来るような気がした。
「貴方の成績は悪くはない。歌も……素晴らしいと思う。しかし、新しい歌を広めていくと言うには、些か実績が足りないのです」
そう。ジャズは今、ようやく学内の一部の生徒に認められたにすぎない。
ジャズをこの世界に広げていくには、もっと多くの人々に聞いてもらい、所謂ムーブメントを起こす必要があった。
さらに、レジナルドは懐から数通の封書を取り出す。
「それから、これは全てルブラン侯爵から送られて来たものです」
「……っ! お父様が……一体、なんて……」
「要約すると『自分は君の留学を認めていない』、『留学させないで欲しい』と言う内容の嘆願書です」
「――!」
グッと、膝の上で組んだ手に力が入る。
また、あの縛られた生活に戻れと言うのか。
そんなの絶対に無理だと――カレンの顔が苦々しく歪む。
レジナルドは、カレンを慮りながらも、落ち着いた声で事実を告げていく。
「今、どの国も同レベルのアカデミーは貴族位の者達のみで成り立っています。当然、留学生も貴族である事が求められております。アカデミーは、他国に対して生徒個人の実力を保証する事が出来ますが、爵位を用意する事は出来ません。いずれにしても、お父上を説得する必要が出て来るでしょう」
(お父様を説得……そんな事……)
出来るのだろうか。
恐ろしい父の眼差しと、恫喝する声を思い出す。
体が小刻みに震え、呼吸が浅くなり、体から血の気が引いていく。
すると、レジナルドの落ち着いた声が耳に届いた。
「――大丈夫ですか?」
カレンは、はっと意識を取り戻した。
震える自身を呼吸で落ち着かせ、コクリと頷く。
「大丈夫、です……ごめんなさい」
いつもなら『申し訳ございません』と言うところ、思わず前世の口調が出てしむまう。けれど、レジナルドはそれを気にする様子もなく、カレンをただ痛ましげに見つめていた。
「貴方の事情を、詳しく教えては頂けませんか?」
「事情……ですか?」
レジナルドは、深く頷く。
「単に、貴方の歌声を世に知らしめるだけで良いのならば、留学に拘らずとも構わないでしょう。しかし、その様子だと留学に拘らねばならない事情があるのでしょう? ベルフォール公爵からも『どうにか留学をさせてあげて欲しい』と書状を貰っております。私の権限でどこまで出来るか分かりかねますが、一先ず、貴方の話を聞かせては頂けないでしょうか?」
カレンは、暫し思案し、コクリと頷いて――ぽつり、ぽつりと話し始めた。
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