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折れた傘が道に落ちていた。
降りやむ前に折れたのだろう。雨は上がったのに水たまりにずぶ濡れのまま浸かっている。うっすら差した日差しに浮かんで心なしか寂しそうにしていた。
水たまりを覗き込むと、小学校低学年くらいの女の子がこちらを覗いていた。
雨は嫌いだ。
晴れも嫌いだけど、雨の鬱屈した空気はいらないことを思い起こさせる。今日会社で居眠りしてしまったとか、週末気の向かない予定を入れてしまったとか、そういう自責を伴う嫌なことも思い出させる。いつのまにか雨靴の隙間からしみ込んでいた雨がストッキングを濡らして音を立てていた。
予報アプリではもう十分もすれば雨は止むらしいが、湿った川の臭いが期待と予報が外れることを示唆している。家に帰るだけとはいえタクシーでも捕まえればよかったかもしれないが、駅を出てしまったからにはもう歩くしかなくなっている。これだから本当に夏の雨は最悪だ。
古びたビルの裏あたりでふと強い風に煽られて傘が折れた。折れたと同時に水たまりに足を突っ込んでしまった。
最悪だ。
ああ、最悪だ。最悪なんだ。
水たまりを覗き込むと、誰かがこちらを覗いていた。
なんでこんなこと思い出すんだろう。
ついこの間、敬愛していた先生が亡くなっても何もできなかった。
あれは3年前、試験で祖父の葬式に行けなかった。
あれは12年前、後輩とを事故で失って恩師も病で失って途方に暮れた。
あれは13年前、もうひとりの祖父の死に目に間に合わなかった。
あれは14年前、親族の死が汚い大人たちに踏みにじられていくのを目にした。
あれは15年前、たくさんの人に慕われていた祖母が亡くなったとき。
弔う間もなく学校で髪を引っ掴まれて引きずられたり、先生に裏切られたり、それを発端に家でも居場所を失ったとき。たしかに思ったんだ。
死ぬべき時は今だったと
なんで忘れていたんだろう。死ぬべき時を超えて生かしてもらっていたのに。
わたしは与えられた長すぎる余生で何をするべきだったんだろう――
何かに沈むような感覚で慌てて目を開けた。
カンカンに照った太陽に足元の水たまりが照らされている。わたしはお気に入りのガーゼ生地のワンピースを着て小さなサンダルを履いていた。自分が水たまりに足を突っ込んでしまったのだとわかると暑いはずの空気が一瞬で冷え切った。母が近くにいるはずだ。そう、たしか母について駅に買い物に行く途中だった。泣きそうな顔で母を追いかけた。
泥はねはその場でたいへん叱られたけども、結局その日黒いワンピースを購入して帰ったころには母は別のことを気にしていて忘れられていた。おとなしく別の服に着替えてリビングに行くと塾の宿題とおやつが置かれていた。
何かが変だった。母と出かけていて、何かに沈みそうになったのは強い日差しに当てられたからだけではなさそうだったし、明後日から数日学校を休めることへの歓喜でもなかった。やはり何かが変であるという感覚はあの水たまりに足を突っ込んでしまったところからに思えた。
普段の自分であったなら、母の咎めを恐れて一人で夕方に飛び出していくなどということは決してないのだけども、この日ばかりは心持も異なっていた。とにかくあの水たまりが乾いて消えてしまうまえに覗き込まなければいけない気がしたのだ。
学年で3番目に速い足でも最初の場所に戻るのには15分はかかった。空は夕立の前兆で黒々してきていて、乾くより水たまりが波紋で覗けなくなる方が早そうだった。わたしはそっと水たまりを覗き込んだ。
なんでこんな幻影を見るのだろう。
擦り切れたかかとに血をにじませてわたしを覗き込むわたしがいた。
とても惨めに見えた。
ブラウスと黒いスーツを着ていて、血のにじんだかかとは雨がしみ込んでけいれんを起こしているかのように時折震えた。
じっとただ見つめていると、ふと折れた傘が降ってきて視界が真っ暗になった――
覗き込んでいる女の子に手を伸ばすとその女の子も手を伸ばしてきていた。なんだ、おまえはそういう感じか。あの傘が未練がましく見えたのも気のせいではなさそうだ。
雨は上がったぞ、とへたり込む女性に一声かけると、女性は「またですね」と力なくつぶやいた。
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