雨宿りの出会い

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 通り雨だと思う。  久しぶりに定時で上がれたので、スーパーでビールとおつまみを買って帰る途中、いきなり雨が降り始めた。  雨脚は強くなり、アスファルトに弾かれた雫がこちらに向かって飛び散る。  扉に「本日休業」と書かれた札がぶらさがっている店の前で、雨宿りをするが、勢いのある雨を完全に避けることはできない。  今日に限っていつもと違い、高いヒールを履いてきた。アパートまで徒歩十五分。走れば十分で着くかもしれないが、ヒールで走るのは賢明ではない。  今日の天気予報は晴れのち曇り。雨ではなかった。降水確率は二十パーセントで、雨が降るはずではなかった。  だからすぐに止むだろう。  そう考え、しめったシャツでパタパタと扇ぐ。  早く服を着替えたい。家に帰ってビールを飲みたい。  折角定時で上がったのに、これでは仕事のきりが悪く残業したときと帰宅時間が変わらない。  私は我慢ができず、ビニール袋から缶ビールを取り出した。  プシュッという良い音がして、これこれ、と自然と口角が上がるのを感じながら喉へ流し込む。  コマーシャルを見て、飲みたいと思っていたビールだ。同僚が美味しかったと言っていたので、飲むのを楽しみにしていた。  このまま雨宿りしていたらビールは温くなり、美味しさは半減する。冷蔵庫で冷やす時間が惜しいので、帰ったらすぐ飲もうと決めていたのだ。  ぷは、と中年男のような反応をしていると、隣に誰かやってきた。  夕方から外で缶ビールを飲むなんて非常識な女だ、と思われていないだろうか。  急に人からの目が気になり、隣に立った人間をちらっと盗み見る。  視界に入れた瞬間、全身が黒いなと思ったがそれもそのはず、詰襟姿の男の子だった。  横顔は幼すぎず、大人すぎず。恐らく高校生になったばかりだ。  背負っているのはスクール鞄で、校章が刺繍されている。その校章を見てピンときた。この高校は知っている。  「この時代に通学鞄が指定だなんて、あり得ない」というクレームが殺到したが、「本校としての生徒であることを常に意識するため」云々の反撃をし、保護者に勝利した高校である。  どうして詳しいかというと、うちの会社はこの高校の職場体験を受け入れているからだ。  総務部の同僚が愉快そうに通学鞄騒動を教えてくれたので、覚えている。 「あの、何か」  じっと見すぎたからか、男子高校生は眉を寄せている。  正面から見ると、可愛い顔をしている。  幼さが拭いきれない。 「なんでもない」  気まずくなったのでビールを一口飲む。やはり美味しい。  ごくごくと半分程飲んでところで、視線を感じた。  隣を見ると、男子高校生がこちらを凝視している。 「何か」  今度は私が言う番だった。 「……別に」  あまり良い顔をしていない。  そして男子高校生の視線をたどってみると、私が持っている缶ビールに注がれていた。  もしかして、危険な酔っ払いだと思われているのだろうか。  ビール半分で酔うほど弱くはない。  酒の弱い女だと思われ、むっとする。 「これくらいじゃ酔わないから」  缶を軽く振って言うと、高校生は目を丸くした。  あ、その顔、可愛い。  そんな感想を抱き、自分を殴りたくなる。  男子高校生相手に、本気で可愛いと思ってしまった。これはセクハラになるのではないか。  世間から白い目で見られる案件だ。  断じて、邪な思いを抱いたわけではない。  犬を見て可愛いと思うのと同じだ。決して下心があったわけではない。 「いや、そういうんじゃなくて」  呆れた顔をされ、さらにむっとする。 「じゃあ何よ」 「別に」 「別にじゃないでしょ。言いたいことがあるならはっきり言いなさい」  言いたいことがあるのに、それを匂わせるだけではっきりものを言わない人間が嫌いだ。  言う気がないのなら、匂わせもしないでほしい。 「……こんなところでビール飲むのは、どうかと思います」 「はぁ?」  これだから子どもは。  社会に出れば分かる。一分一秒がどれだけ大切か。会社に八時間以上も拘束され、退勤後はスーパーで少しでも安い惣菜を見つけ、家に帰って洗濯や、残っている家事をする。そうすると、自分の時間なんてなかなかとれない。  その時間を、今ここで回収して何が悪い。 「養われる側にはわかんないわよ」  言ってから少し後悔した。  もしこの子に弟たちがいて、女手一つで育っているのなら、この子は毎日家事をして家族のために尽くしているはずだ。それを私は、家庭環境なんて微塵も分からないのに、養われていると決めつけた。 「いや、俺が言ってんのはそうじゃなくて」  今まで以上に呆れた表情で、指をさす。 「それ、いいんですか?」 「それ?」  高校生の人差し指の先と視線の先。  そこには、私の名前と会社名が入っている名札があった。 「え!」  そういえば、今日は終業前に取引先の客がきた。  普段は名札をつけないのだが、担当が変わり、初めて会う人なので一応名札をつけたのだ。  名札をつける習慣がなければ、外す習慣もない。  首から下げている名札の存在を忘れ、今に至る。 「うわぁ、恥ずかしい」  急いで名札を鞄に入れる。  会社はここからすぐのところにある。そして割と知名度が高い。そんな会社で働く女が缶ビールを飲みながら雨宿りをしている。恥ずかし気もなく名札をつけて。  そりゃあ、この子もびっくりしただろう。 「教えてくれてありがとう」 「別に」  羞恥よりも、粗相をしていなかったか記憶を手繰り寄せる。  スーパーではいつも通りだったし、嫌な態度をとった覚えはない。  問題はないはずだ。 「あ、雨止んできた」  高校生が言ったとおり、雨脚が弱まってきた。  やはり通り雨なのだ。  傘を持たず、私たち同様に近くで雨宿りをしていた人たちが、これくらいならいけるとばかりに外を走り始めた。少しでも早く帰りたいのだろう。スーツ姿の男や、オフィスカジュアルな女が家を目指している。その気持ちはよくわかる。  私もそれに続こう。  飲み干した缶ビールを、隣にあった自動販売機のごみ箱に捨てる。 「お姉さん、もう帰るの?」 「うん。あなたも帰れるときに帰りなよ。もしかしたらまた降ってくるかも」  空を見上げると、雨は上がっていた。雨なんて降らなかったような、良い天気だ。  これから歩いて帰っても大丈夫だ。  その場から立ち去ろうと一歩踏み出すと「明日」と高校生の声がした。  振り返ると、高校生はふっと笑みを浮かべていた。 「明日、よろしくお願いします」 「明日?」  何のことだと首を傾げる。 「明日から、その会社に職場体験に行くことになったので」 「え、そうなの? 君、何年生?」 「高校二年生です」  一年生だと思った。とは言えない。  それに、職場体験なんて話を聞いた覚えが……あった。  そういえば総務部が何か言っていた気がする。仕事に集中していて何も聞いていなかったし、どうせ高校生たちの相手はしないからだ。 「私は多分関わらないと思うけどね」 「そうなんですね。じゃあ他の人に聞いてみます」 「何を?」 「あの人って、勤務中もビール飲んでるんですか?」 「うわ、君、嫌な人間だね」 「よく言われます」  とても良い笑顔だった。  嫌な人間、と言われるのがそんなに嬉しいのだろうか。変な子。 「本当は嫌だったんですよ、職場体験。面倒だし、テキトーに第一希望を書いただけだし」 「それを私に言うんだ」 「でもお姉さんを見て、興味がわきました」  悪い気はしない。  私がきっかけで興味を持ってくれるのは嬉しい。 「その会社、結構有名ですよね。それなのに、お姉さんみたいな人も入社できるなんて、どんなところなのか興味があります」 「嬉しくない」  ちょっとビールを飲んでいただけなのに。 「明日、楽しみにしてます」  高校生の顔には、心底楽しみだと書いてあった。  そんな表情をされたら、何も言えない。 「それじゃあ、また明日」  立ち去る後ろ姿は小さくなり、やがて視界から消えた。  早く帰りたいと嘆いていた私の心は、雨が上がったかのように晴れやかになった。
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