ラブレター

1/1
前へ
/1ページ
次へ
「私が死んだから、あなたがあの子を育ててね」と彼女は言った。  娘の誕生日直前、妻はそんな言葉を言い残して死んだ。 *  私の親はちょっとなぁ……義両親かぁ……  学童申し込めば? 大丈夫、ひとり親なら入れるし、お留守番もできるよ。残業続くようだったら転職すれば?  大丈夫、今までみたいに贅沢はできないけど幸せに暮らすことはできる。  大丈夫。  そう言って妻は、僕と娘を残して死んだ。  思えば彼女が交通事故に遭った時、「いつもならこんなミスしない」といっていた。  その一ヶ月、「神社に行きたい、厄祓いのあるところ」というリクエストに答えて家族で遠出した。  その一週間、「何かに引っ張られてる。やばいかもしれない」と彼女は笑った。  笑って言った。  だから僕も、笑い返した。  えー、厄払いでもいく?  今は生理だから。  そっかぁ、じゃあいつかね。いつかお祓い行こうか。  その会話をした一週間後、妻は死んだ。  そういえば娘の妊娠がわかる前、「ベランダに子どもの足跡がある!」と騒いで青ざめる妻を安心させるために、厄年でもなんでもない妻を安心させるために神社に厄祓いを申し込んだ。  お金は封筒に入れればいいのか、どう書けばいいのか、と悩む妻の話が面倒くさくて、雑な返答をしたっけ。 『別にいいよ』  そう言って面倒くさがる彼女を、無理矢理にでも引っ張って厄祓いの儀式に連れて行くべきだったのか。  妻が死んだ。  最初にして最悪の、一生を共に生きていきたい大切にしたいと思っていた女性が。  *  もともと過去は振り返らない性格だ。  後悔するより未来を、先のことを考えて過ごした方が効率がいい。過去を悔やむより前を見て、「あの時あぁしておけばよかった」「彼女の声に耳を傾けておけば」などと、振り返るより娘の未来を考えなければ。  母親を失った娘をどう育てるか。  そうだな、まずは母に相談……いや、義両親の方がいいか? 娘も義母には随分懐いてる。そうだ、そうしよう。でも義実家に預けるとなると、僕もはなかなか合えなくなるな。でも仕方ないか……  と、これからの事を考えていた時ふと、娘が僕の手を引いた。 「お母さん……」  ハッとして視線を落とすと、どこを見つめているのかすらわからない娘の泣きそうな顔が目に飛び込んできた。 「お母さん」と、娘がもう一度呟いた。  普段、娘は妻の事を名前で呼ぶ。 「お母さん」と呼びなと何度か注意したのだが直らず結局、娘は妻の事を名前で呼ぶようになった。  家族がバラバラになった日、僕の単身赴任が決まって旅立った日、娘は妻のことを「お母さん」と読んだそうだ。  妻に気を使うながら、『お父さん行っちゃたね』となく妻を気遣いながら、十歳にもなっていない幼い子どもが無理に笑い親に気を遣っていた。  そんな話を、むかし、妻から聞いたことがあった。  そして現在、  普段名前で呼ぶ母親のことを「お母さん」と呼び和かに笑う娘を、僕は抱きしめた。  子どもにとっての母親ってなんだろう。  どのような存在だろう。  どれだけ重い、大切な存在なんだろう。  泣いた。  涙が出た。  妻の名前を叫びながらわんわん泣く僕を見て、娘が泣いた。  お母さんではなく妻の名を、僕と同じように彼女の名前を叫びながら僕と、僕の彼女の子どもが、同じように、もう二度と会うことも会話するとこもできない妻と母を思って、  一緒に泣いた。  *  その二年後、僕は会社を辞めた。  転勤のある会社だったので、一応相談はしてみた。  子どもがいるのでこれ以上の転勤は勘弁して欲しいと。  だめだ何を考えているのだと怒られたので辞表を出した。  妻が死去する直前、彼女と話をしていなければきっと僕は、今も会社を続けていただろう。その場合娘は、僕の実家と妻の実家、つまり二つの祖父母宅を行き来し、親のいない生活を送っていた。  それはそれでいい、その選択ゆえに幸せになった子もいる。  娘にとってはそれが幸せだったかもしれないし、そうじゃないかもしれない。  ただ僕がその選択をしなかった。  贅沢を諦めてでも仕事を辞めて今のは仕事を選んだ理由は、妻の遺言があったからだ。 『あなたが育てて』  彼女がそう言った。  だから僕は、一流企業を辞めて娘の側にいる道を選んだ。  喧嘩もした、娘も泣いた、散々だったけれども、妻の願いは叶えれた。 『義両親でも両親でもない、あなたがあの子を育てて』  という妻の願いは、達成できた。  これでよかったかな?  あの子は正しい道を進めてるかな?  そんなこと、僕にはわからないけれど。  娘が幸せな幼少期を送れたかどうかはわからない、けれども。  君の願いは叶えることができた。  君の想いは受け継ぐことができた。  君の思い残したことは僕が、引き継いだよ。  君が話したことばかりをやっている。  笑っていいよ、僕はこんなにも君が好きだったんだ。  ありがとう。  遅くなったけど感謝を伝えるよ。  僕の側にいてくれて、一番大切な人になってくれてありがとう。  前置きが長くなったけど、実は今日、娘が彼氏を連れてくるんだ。  彼氏というか婚約者?  いや、僕はまだ認めてないからまだ、ただの彼氏だな。  大丈夫、任せて。  好きな女の子を幸せにする気力はあるか。  その思いの強さはいかほどかなんて事を見定める力、僕にはあるから。  経験者は語るってことかな、僕に似た男だったらいいだろ? あれ? 違う?   もっと会話上手で思いやりがあって箸の持ち方も綺麗で?  相変わらず注文が多いな、君は。  箸の持ち方はずっと、注意してくれてたね。  そうだ、ごめん、娘の箸の持ち方も直ってない。  あぁ、だったら、彼氏の食事マナーも僕らがとやかく言えないな……。  なんだ、ダメだな、やっぱり君が、母親がいないと……。  あぁ、もう時間だ。  あと10分で娘とその彼氏がやってくる。  大丈夫かな、僕はうまくやれるだろうか。  もしも、僕に至らないところがあったら風でも吹かせて叱って欲しい。 「コラ! 違うでしょ!」っていつもみたいに、怒って欲しい。  声は出ないだろうけど、触れもできないけれど不甲斐ない僕を、いつもみたいに叱って欲しい。  いつもって言い方は変だな、君がいなくなったのは随分前なのに。  随分前だけど僕は、それでもずっと、君が好きだよ。  玄関のベルが鳴った。  娘が帰ってきた。  行ってくるね、見守っててね。  できれば側に、寄り添っててね。  幽霊の姿でもいいから、君だったら何でもいいから。  よし、行くか。  しばらく独り言は呟かないからこれだけ、一言だけ言っておくよ。  大好きだよ、今でもずっと。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加