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 台風が過ぎて、少し夜も過ごしやすくなって、そろそろ秋が近づいてきたかなと思う頃、母から電話がかかってきた。  なんでも私宛に手紙が届いているらしい。  さすがに勝手に開けられないからと電話をかけてきたということだった。私が私に手紙を書いた? なんのこと?  そう思いながら数年振りに実家に帰ることにした。  少し錆びれた町の駅で電車を降りる。  乾いたアスファルトのゆるい下り坂を娘と二人で歩いた。  実家に戻ってから、土産話もそこそこに私から届いたという手紙を母から受け取った。そこでようやく十年後の自分に手紙を出すことができるサービスを使ったことを思い出した。  十年前、19歳の夏に手紙を出したんだ。  あの頃は実家を離れて横浜で暮らしているなんて思いもしなかったな、とかそんなことを考えながら私は私が書いた手紙の封を開けた。  すると、そこには 「19歳の私から29歳の私へ質問です。私はいまでもこの後に書いたことを覚えていますか?」  という出だしで始まる便箋が4枚もあった。 「え? ママ、なにこれ?」  覗き込む娘がちょっと引き気味に眉間に皺を寄せて言った。 「これはねぇ、パパと出会う前に好きだった人のことがびっしり書いてあるの」 「好きな人のこと?」 「うん」 「でもさ」  娘が首を傾げた。 「真っ黒だよ? ずーっと真っ黒だよ?」 「そうだねぇ。それだけ好きだったんだろうね」  最初の一行以降は、すべての行が黒く塗りつぶされていた。思いはすべて真っ黒に塗りつぶされていた。  まるで戦後の教科書みたいだ。  私はこの黒塗りの向こうに何が書かれているか知っている。不適切でも何でもない、あの頃の私が忘れたくなかったことを埋められている。  夫にも話していないあの頃の恋、いまでも私は覚えている。  だんだんと記憶が曖昧になっているところも正直あるけれど。  あんなに相手のことを知り尽くそうとした恋はもうしていないけれど、今の私は幸せだって言える。  そこに至るまでは、時間だけが解決したわけじゃなくて、真野ちゃんやいろんな人のおかげだった。あの頃のあんなにも泣いていた自分を抱きしめてあげたい。いろんなことを伝えてあげたい。 「ママ、その人のこと好きだったの?」  娘が私の顔を覗き込む。  あの頃の私に伝えてあげることができないから、せめて娘にあの頃の恋の話でもしてみようかな。  母が開けた窓から涼しい風が吹き込み、カーテンが揺れた。  今年の夏も終わっていくのかな。
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