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「階段?」
「その箱は、苦手だ」
エレベーターに乗るときの、眉間の皺の原因はこれだったのか。
本当におもしろい人だ。
大垣は頬を緩めた。
「日向子さん、俺、ここで待つんで、容器だけもらえれば」
「なにをいっている。上がれ」
「いや、それはちょっと・・・」
「嫌なら仕方ないが」
「嫌じゃないですけど、ダメじゃない?」
「何かやましいことでもあるのか。無いなら遠慮するな」
やましいといわれればやましい。違うといわれれば、違う。
「少し、礼もしたいしな」
結局、大垣は日向子の部屋の小さなちゃぶ台の前に座ることになった。
自分の家に日向子を入れたとき、なぜあんなに緊張せずいられたのか、今の自分には想像できない。
それくらいソワソワと落ち着かない自分が不思議でたまらない大垣だった。
「では、こちらを。大変よいものを頂いた。礼を言うぞ」
味噌を入れていた四角いホーローの容器を、点てたお茶を差し出すようにスススと、大垣の前に滑らせた。
そして傍らに置いたトレーから、湯気の立った味噌汁を一杯、またスススと出した。
「頂いた味噌で毎日作って、なんとか食えるものが出来るようになったぞ」
それは豆腐が入ったシンプルな味噌汁だった。
香りをかいで、一口入れた大垣は日向子を見た。
「煮干し?」
「さすがだな」
「すげぇ旨いです。日向子さん、料理するんじゃん」
「今のところこれだけだ。それに、この味噌でないと旨くない」
その言葉は大垣にとって一番の礼となった。
物心ついたときから実家では母が味噌をつけていた。ちょっとこだわりの強い母に育てられ、生きづらいと思うこともあったが、今の健康な肉体と精神はこのおかげだろう。大人になってからはメリットの方が多かった。
食べ終わった食器を一つずつ丁寧に片づける。
何かの作法のように丁寧に。
「日向子さん、やっぱり侍みたいですよね。所作が、かちっとしてて、姿勢もいいし」
「ん・・・・あぁ、そうだな。そうか、変か、気をつけよう」
「いえ、変じゃなくて、カッコいいですよ。お、俺は好きです」
「そうか、それならよかった」
好きです。
その言葉をさっぱりとあしらわれたように感じて肩を落とした大垣は、思い切ってトレーに食器を重ねる日向子の手を止めた。
「あの、日向子さん、俺・・・」
好きです。
口から出るまもなく、大垣の体はゴロリと転がり、日向子に後ろ手にされ、うつ伏せで捕らえられた。
「え?」と、いう言葉は声として出るには至らなかった。
それは、一瞬の出来事だった。
「無礼者!お主、何のつもりだ?このおなごに手を出すことは私が許さん」
一際低い声が日向子の口から飛び出した。
組み伏せられた大垣の目の前の床には、衝撃で崩れてしまった食器が散らばっていた。
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