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名無しの侍
「名を忘れた」
ははは、と笑って侍は言った。
「もうずいぶんとこの世に慣れてしまったんだな。たしかに、乗り物や仕事や日々の生活も、以前ほど苦ではない。初めてこの世で目覚めたときは、本当に気が狂うほどだったが、今じゃこの通りだ。ここは心地がいいのだろうな」
箱の中のノートを一冊手にとって大垣に見せた。
「どうやら日向子は日々の鍛錬の記録をしていたらしい」
そこには筋トレやジョギングの記録、カロリー計算、体重の増減などが記録されていた。そのほかにも、手帳には仕事の予定はもちろん、出来事の記録も細かく書かれていた。
「この女はまるで本当の侍のようだった。私など足元にも及ばない、磨かれた精神と肉体は一朝一夕に出来るものではない。この体を返すまで、私に責任があると思ったのだ。そのおかげで何とかやってこれた」
大垣の方を向いた日向子の目は少しだけ寂しそうだった。
「それが、私ときたら、この世に幸せを感じるほど慣れてしまって、自分の名まで忘れるとは。愚かなことだ、これが侍などとよく言えたもんだ」
「日向子さん・・・」
「もしかしたら、日向子が戻ってこれないのは私のせいかもしれない」
「そんなの、無理でしょ。どうにも出来ないって、前にも言ってたし・・・」
「大垣、私はな、辻斬りにあったのだ。これだけは忘れない。忘れたくてもまだ夢に見る、その瞬間を。斬られて倒れて、斬った者が遠のいていく姿を、だんだんと目の前が滲んで暗くなる様を」
大垣の手は日向子の姿をした名無しの侍の背中をなでた。
「私は何もなさずに死んだのだ。そしてこの世に来た。だけど、また私は何もなさずに、侍として人として何にもならずに消えていく。それがどうしても怖くて、話し方も人との関わりも頑なに変えなかった。私がそんなことにこだわらなければ、日向子はもっと早くにここに戻っていたかもしれない」
雫がぼろりと落ちる。
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