名無しの侍

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名無しの侍の涙は、夕立の雨粒のように大きく激しく落ちていた。 「死にたくない。死ぬのは嫌じゃ、助けてくれと、願った。まだ、死にたくないとあのとき願ったのだ。ごめんなさい。そんなこと願わなければ私はここにはいなかったかもしれないのに。ごめんなさい」 そう言えば、いつの間にか言葉遣いや日々のやりとりも、以前のようではなくなっていた。だんだんと変わる日向子を見ていた大垣は、その変化に気づいた。 「ごめんなさいなんて、そんなこと言わないでください」 「私が諦めていればとっくに終わっていたかもしれない。その証拠に、これだけ抵抗しているのに、己の名すら忘れてしまったんだ。私の事など誰も知らない。だれも、私のことなど忘れてしまう。私は何にもならず、何もなせずにいなくなる・・・」 死にたくない・・・ 大垣は日向子の体を抱きしめた。 少し前まで、そんなことは許されなかったのに。 「こんなことにならいっそ、あのまま死んでいれば良かった。お前のことなど、知らずにいれば良かった。あのまま消えていたら、こうして、二度目の死にも怯えずに済んだのに・・・」 震えた声の名無しの侍は、硬くこぶしを握っていた。自分ではどうすることもできなかったはずなのに、死にたくないと願った自分を責めている。 「誰だって死にたくないですよ。貴方がそう思うのは当たり前です。俺だって、同じ目にあったら同じように思います。だから謝らないで」 数えで二四か二五だとはじめに言った名もなき侍は、今の年齢で言えば大学を卒業してすぐくらいの若者だ。 それが突然刀で斬られ暗闇に一人で倒れて、どんなに怖かったか想像を絶する。 「俺はもう日向子さんでも貴方でもどっちでも良い。今、目の前にいる人が幸せならそれで良いですよ。だから、貴方がうれしいと思うことをしてください」 「その幸せに慣れてしまうのが怖いのだ。自分が無くなってしまうようで、怖い」 「貴方が幸せを感じることに何の罪がありますか。ずっとその苦しみと生きるつもりですか」 「お前は優しい男だな。いっそこのまま日向子として生きられないかと思ったこともある」 大垣の腕の中で名無しの侍は続けた。 「日向子を守るつもりで今まで生活していたけど、私が完全に消えずに残ったら、このまま年老いていくとしたら、拒み続けるのは酷というものではないか。この女が幸せになれないのではないかと思うのだ」 絞るような声で少しずつ慎重に言葉をつなぐ。 「私は男を好いたことはないはずなのに、女の体と心になってからは、もう、それもよくわからないんだ」 しかしなあ・・・ 名無しの侍は大垣から体を離した。
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