第1話 ひまわり畑

1/1
前へ
/12ページ
次へ

第1話 ひまわり畑

「もうちょっとよく考えれば良かった…」  咲き誇るひまわり畑を前に、千鶴は15年分の大きな溜息をついた。娘の葵(あおい)はひまわりの中に紛れてどこに居るのか見当もつかない。大好きな花なのに、あの日を思い出すとひまわり畑を直視できない千鶴は、葵と決めた集合時間になるまで、畑から少し外れた場所の小さなベンチに腰掛けていた。  15年前、千鶴(ちづる)は、夫の小谷 健(こたに けん)と一緒にこのひまわり畑にやって来た。丁度妊娠中で悪阻(つわり)が酷かったのだが、大好きなひまわりが一面に咲き誇っているのをテレビで見て、行きたいとねだったのは千鶴だった。二人は愛車である水色のビートルに乗って、この海の見えるひまわり畑にやって来た。そして迷路のような畑の中で、はぐれてしまったのだ。ひまわりは背の高さ以上になっているので周囲が見通せず、そんな中を千鶴が好き勝手に歩き回ったせいもある。しかし、妊娠中の妻を夫は常に追いかけてくれると思っていたのだ。だから夫の姿が見えないことに気づいた千鶴は、驚きとともに突然、夫に幻滅してしまった。不安定な精神や体調による面もあったのかも知れない。  吐き気と戦いながらひまわり畑を散々歩き回った千鶴が、通路脇にしゃがみこむ健を見つけたのは、それから20分も後だ。 「ホント、サイテイ!」 「ごめんごめん」 「これから天気悪くなるんだから、急いで回ろうって言ってたじゃない!」 「ごめん、ちょっと追いつけなくてさ」 「妊婦より遅くてどうするのよ!」 「だからごめんって。もう大丈夫だから。ちゃんと一緒に居るから」 「当たり前でしょ!」  千鶴が健を攻め立てるのには理由があった。気象予報士の資格を持つ千鶴は、妊娠してから一層天気予報が当たるようになっていたのだが、天気が崩れると、決まって悪阻が酷くなるのだ。因果関係はよく判らないが、千鶴以外にも時々聞く話であった。 「帰ろ。早くしないと降る」 「うん」  帰り道のビートルの車内でも千鶴は一言も口を利かなかった。千鶴の予報通り、間もなく周囲は雨に包まれ、千鶴は不機嫌そうにその様子を見ている。お気に入りの麦わら帽子も、今日の象徴のように見えて忌まわしい。帰宅して車を降りるとき、千鶴は雨の駐車場にその麦わら帽子を投げ捨て、健が慌てて拾ったほどだった。 +++  しばらくして千鶴は双子の子どもを出産する。男の子と女の子。一卵性と言うがそれほど似ているとも思えない。千鶴は育児に忙殺された。一度夫に失望してしまった千鶴には、もう健のマイナス面しか見えなくなり、傷口はどんどん開いてゆく。ちょうど仕事で脂が乗り切っていた健の育児協力が少ないことも拍車をかけた。急流を滑り落ち続けるように何も手を打てない二人は、半年後、無力感に包まれて離婚した。  売り言葉に買い言葉と言う面は否定できない。どちらももう引っ込みがつかなかったのだ。互いにはもう会わさない約束で、千鶴は女の子の葵を引き取って実家へ帰り、旧姓だった若宮 千鶴(わかみや ちづる)に戻った。そして今日、15年ぶりにあのひまわり畑にやって来たのだ。葵がテレビを観て行きたいとせがんだからだ。妙なところを似てしまったと思ったが、いい思い出がないと言うのは、葵には関係ない。電車とバスを乗り継いでやって来たひまわり畑は、あの日のように黄色く輝いていた。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加