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◇プロローグ ~灰頭巾~
ここは、王都から遠く離れた北方の田舎町・ウッタラ――。
一人の小柄な女が、石畳の坂道をゆっくりと、だが、しっかりとした足取りで上っていた。
小さな背嚢を背負い、頑丈そうな長靴を履いた女は、坂の上にある神殿を目指していた。
二人の男の子を連れて坂を下りてきた母親が、女とすれ違った。
母親は、急いで足を止め振り返ると、両手を胸の前で組み女の背中に向かって祈りの言葉を呟いた。そして、感慨深げな表情で、坂の上に消えていく女の後ろ姿を見送った。
「かあさん、今の人、誰? 知ってる人?」
「着てるもんも、持ってるもんも、ぜーんぶ灰色だったよね。どうして?」
幼い二人の問いかけに、母親は笑みを浮かべながら優しく答えた。
「あの人は、灰頭巾さんよ。灰色のものだけを身につけて、旅をしているの。昔から、道で灰頭巾さんに出会ったら、幸運を祈ってあげることになってるの」
「ふうん……そうなんだ……。おれ、灰頭巾さんを初めて見た!」
「ねぇ、灰頭巾さんは、なんであんな格好で旅をしてるの?」
灰頭巾は、この国に昔からある風習の一つだ。
この国では、許婚を亡くした女は、望めば神殿で冥婚の儀式を執り行ってもらうことができる。
亡くなった許婚と夫婦になり、その魂と共に一年間巡礼の旅に出るためだ。
旅の間は、灰色の頭巾を被り、目以外の部分を全て灰色の布で覆うので、巡礼者は「灰頭巾さん」と呼ばれている。背嚢や長靴や手袋もみんな灰色だ。
生者でありながら死者と夫婦になった証として、生を意味する白でも死を意味する黒でもない灰色の衣服を身にまとうのだ。
巡礼の旅を終えたのち、まだ許婚のことが忘れられなければ、灰頭巾は、神殿の巫女や神官になり、生涯かけて冥婚相手のために祈り続けることができる。
しかし、多くの者は、灰頭巾になることで亡き人の供養を早々にすませ、巡礼後は神殿で冥婚を取り消してもらい、新たな人生を歩み出すことを選ぶ。
この風習のおかげで、許婚を亡くした女も一年が過ぎれば、まわりから誹りを受けることなく、新たな結婚相手を堂々と探すことができた。
灰頭巾となった者は、義理堅く信心深い女ということで、むしろ良い縁談が次々と舞い込むことさえあった。
中には、灰頭巾になったと偽って遠方の親戚の元にこっそり身を寄せ、一年後にしれっとした顔で戻ってくるという不届き者もいたが、たとえそれがわかっても人々は責めたりはしなかった。
なぜなら、許婚に先立たれてしまった女の生きづらさを誰もがわかっていたからだ。
特別な財産や高い身分でもない限り、許婚に先立たれた者は、不吉な女として疎まれ婚期を逸することすらある。旧態依然とした田舎では、男であれば受けないであろう悪口に耐え、生涯一人で生きていく者も少なくなかったのだ。
子どもたちは、まだ、こんな話を理解できる年齢ではない。
それでも母親は、いましがたすれ違った灰頭巾の幸せを願って、子どもたちになんとか彼女の心情をわからせたいと思った。
「灰頭巾さんは、大切な人を失ってしまったのよ。そして、その悲しみを忘れるために旅を続けているの。だからね、灰頭巾さんに出会ったら、『あなたとあなたの大切な人に幸せが訪れますように!』と祈ってあげるのよ。そうすれば、灰頭巾さんが旅を終え、悲しみを乗り越えて幸せになったとき、祈ってあげた人も幸せになれるそうなの」
子どもたちに語りかけながら、母親は自分が初めて灰頭巾に出会った日のことを思い出していた。
あれは、祖母に手を引かれ、神殿に捧げ物をしに行った帰り道でのことだった。
「昔、わたしのおばあちゃんが言ってたわ。『灰頭巾さんには、親切にしなけりゃいけないよ。灰頭巾さんをいじめたり困らせたりした者には、神様が罰をお与えになるよ』って。アシルもブリュノも、ひいおばあちゃんの言いつけを守って、灰頭巾さんに優しくしてあげてね」
「うん、わかったよ。必ず言いつけを守るよ!」
「灰頭巾さんに、きっと優しくするよ!」
真剣な表情でうなずく子どもたちの頭をそっと撫でながら、母親はもう一度坂の上を見上げた。
そのとき、神殿の正面に刻まれた装飾へ日の光が反射し、坂の上の空が一瞬黄金色に眩しく耀いた。
(無事に旅を終え、あの灰頭巾さんがどうぞ幸せになれますように!)
母親は、灰頭巾の姿を思い浮かべ、その福運をあらためて願ったのだった。
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