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3 引っ越し準備
離れへ戻ると、オラヴィが居間で茶の支度をして待っていた。
菓子皿には、シュゼットの好物である紅茶味の焼き菓子が並べてあった。
「あらまあ、オラヴィったら気が利くこと! お嬢様の喜びそうなお菓子をわざわざ用意したりして――。さては、本邸の誰かから、お嬢様の婚約が白紙に戻されたことを聞いたのね? それで、少しでもお嬢様を元気づけたくてこんな気づかいをしたというわけね?」
「はい。ついさっきイベッタが、この菓子を持って教えに来てくれました。たぶんイベッタは、キッチンメイドのレリアから、そしてレリアは客間メイドのエベリナから聞いたのだと思います。エベリナは、奥方様からお使者をもてなすよう言いつかっておりましたから」
オラヴィの話を聞いて、ミルッカは大きな溜息をついた。
メイドたちは、噂好きでおしゃべりだ。
シュゼットの婚約が白紙に戻されたことは、すでにこの邸のほとんどの使用人が知ることとなってしまったと思われた。
使用人の多くは、義姉たちに比べ堅実で控えめなシュゼットへ好意を持ってくれているが、うっかり外で「婚約解消」のことを話してしまう者がいないとは限らない。
この先、シュゼットによくない噂がついて回ることを、ミルッカは一番恐れていた。
そんなミルッカの思いには気づくこともなく、いかにもせいせいしたという顔でオラヴィが言った。
「わたくしは、これで良かったと思っておりますよ! 冬は雪に閉ざされる北方へ、お嬢様を嫁がせずにすんだのですからね! それに、これでこの家ともおさらばできます。わたくしは、これから修理を頼んでおいたシュゼット様の靴を引き取りに町へ出かけて参ります。その折りに、『鋼色の子羊亭』と『セレドニオの店』にも立ち寄ろうと思います。ミルッカさん、彼らへの伝言は、以前からの打ち合わせ通りでいいですか?」
「ええ、それでいいわ。立ち寄り先には、『時は来た、よろしく頼む』と伝えてきてちょうだい」
「承知しました。では、また後ほど――」
オラヴィは、シュゼットにお辞儀をすると、後のことはミルッカに任せ部屋を出て行った。
ミルッカは、ほっとした顔になってシュゼットに茶をすすめた。
セレドニオは、以前はシュゼットの父の鉱床調査屋で、父の片腕として働いていた男だ。
今は、得意な外国語をいかして、諸国の食料品を商う店の主人となっている。
『鋼色の子羊亭』は、シュゼットの家の料理人だったショルスが亭主を務める居酒屋だ。
彼の妻は、シュゼットの母の侍女だったヨルディスという女で、ミルッカの親友である。
引っ越しに当たっては、彼らの力を借りる必要があった。
「ねえ、ミルッカ。セレドニオは元気にしているかしら? ここを出たら、また会えるかしら?」
「きっと、近々お会いになれますよ――。一休みしましたら、いつでも出て行けるように、荷物をまとめてしまいましょう。欲心の塊のような方々に、あれこれ指図される前にね」
シュゼットが茶を飲んでいる間に、ミルッカは荷物を詰める荷箱や鞄を出してきた。
引っ越しの準備は、あっという間に終わってしまった。
離れでの暮らしは、伯爵令嬢としては質素なもので、たいした荷物はなかったからだ。
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