運命の印

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―…― …  仕事が忙しいのか、この日夕食時に鷹臣が現れることはなくそれが少し寂しく思った。 自室の寝台で体を休めていると、リクがやってきた。 どうやら文乃と話がしたいそうで、文乃もそれを喜んだ。なんだか幼少期に戻ったみたいで笑みがこぼれる。  レンガ色のソファに移動してリクが持ってきた紅茶を飲みながら他愛のない話をした。 「鷹臣様、今日も遅いのかしら」 「あぁ、そうだね。妖の部下もたくさんいるけど、僕はそんなに強くはないから一緒に行くことが出来ないんだ」 「そうなの。リクは鷹臣様が好き?」 隣に座るリクにそう問うと、リクは間髪入れずにもちろん!といった。 「文乃もでしょう?」 「え?!」 「だって、鷹臣様の前では“可愛い顔”するんだもの」 「……そ、そんなふうに見えるの?」 「うん、見えるよ」 「……」 穴があったら入りたい、とはこのことだ。両手で顔を隠して長嘆した。 「鷹臣様も文乃のこと大切にしていると思うよ。だって、本当は違う女性が花嫁候補だったんだから」 「そうなの?」 「そうだよ。え?聞いてないの?久我家には別の名家のご令嬢が嫁いでくる予定だったんだけど、鷹臣様が拒否したんだよ。もう決めた相手がいるって」 「ええ、聞いてないわ」 「あはは、僕怒られちゃうかなぁ。これ、聞かなかったことにしてね。もう少しで仕事が落ち着くと思うからそうしたら二人で旅行にでも行って来たらいいんじゃないかな?」 旅行?と聞き返す。 「うん、だって子供をつくらなきゃ!」 「ええええ!」 既に夜も更けてきたというのに、文乃は大きな声を出していた。 「いったい何を言って…」 「何って久我家ではそのために妖を見ることの出来る力のある人間を花嫁として迎え入れているんだから」 当然だというリクに文乃は倒れそうになる。 と、部屋のドアの前で声がした。鷹臣の声だった。リクが「僕戻るね」とそそくさと退室してしまった。  リクと入れ替わるように入ってきた鷹臣は立ち上がり鷹臣のもとへ駆け寄る文乃を見て安堵したような顔をした。 仕事はおそらく危険を伴うものなのだろう。妖に殺されそうになった経験を持つ文乃ならばわかる。 「おかえりなさい。リクとちょうど少しお話をしていて」  浴衣姿の文乃を見下ろしながら、文乃の傷の跡にそっと触れる。まさか触れられるとは思ってもいなかった文乃は緊張するような、でも全身から力が抜けるような、対極な感覚があるが必死に二本の足で立つ。 「そうか、ここでの暮らしが嫌なものではないのならそれでいい」 「嫌だなんて。そんなことは全然…」 「文乃には好いた相手がいたのだろう」  文乃の頬から耳元へ無骨な男性らしい指が移動した。思わず顔を伏せそうになった。 しかし鷹臣がそうはさせなかった。 その目は苛立ちを孕んでいるように思えた。 (いってしまおうか、あなたのことです…と) 鷹臣の鋭い視線が首元へ移った。するとその目がすっと細くなる。 「どうした、この傷」 はっとして自分で今日負った傷に触れた。悪いことはしていないのに、何だか自分が酷く悪いことをしているように思えてしまうほどに、鷹臣の眼光は鋭い。 「これは知らない間に血が出ておりまして。通りすがりにぶつかった男性から指摘されまして」 「指摘?」 怪訝そうな表情を浮かべる鷹臣は文乃の肩を掴みその傷をじっと見つめる。 「その男は人間だったか」 唐突なその質問に文乃は直ぐに頷いた。 人間か妖かわからない時も多い。しかし今日再会した良一といったあの男は人間だ。 「妖の匂いがする。ここで働くもの以外の、だ。今日外出したのか」 「…はい。しましたが、ほんの少しです。お野菜を買いに」  咎めるような声が頭上から降り注ぐ。責められているように感じた。 妖には会っていないと思う旨を伝える。シノに迷惑がかかるかもしれないと思った文乃は自分がどうしても散歩したくて強引にお使いを引き受けたことを伝えた。 はぁ、と溜息混じりの声が漏れる。 「散歩は一人がいいのか」 「いいえ、そういうわけでは」 「では、俺と一緒に行こう。一人では外出はしばらく控えてほしい。俺が伝えなかったのが悪いが、気を付けてほしい」 わかりました、というと鷹臣は長机に置かれた藍色のハンカチに目を向けた。 綺麗に畳んでおかれてある。 「あれは何だ」 「今日会った男性から借りたものです」 「名は?」 「西木野良一様です。以前ちょっと助けていただいたので。あ、ハンカチ返さないといけないわ」  良一とのことを簡潔に、でも正直に話すと鷹臣の表情が曇っていく。 何か悪いことでもしたのかと思ったが、暫く無言で文乃を見下ろしている。 「…文乃、君は俺の妻だ」 「わかっております」  何故そのような当然のことを言うのか分からない。長い睫毛が上下に揺れるのを見ていると、鷹臣の顔が近づいてくる。 咄嗟のことで、脳内が停止する。その動きは緩慢で、避けようと思えばできたのに彼の唇が頬の傷に落ちるまで瞬きも出来なかった。 完全に固まり、呼吸をすることも忘れていた。 「他の誰のものでもない。結婚したという事実を忘れるな。君が他の誰を好きでもそれは変わらない」 棘のある口調の鷹臣をただ見つめるしか出来ない。 心臓が脈打つのを感じる。それなのに、剣呑な空気が流れる。 鷹臣はすっと文乃から目を逸らして無言で部屋を出ていってしまった。 彼が部屋を出てからようやく全身から力が抜け、ペタンと床に座り込む。 まだ頬に触れた唇の感触が残っている。 その日はなかなか眠ることが出来なかった。
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