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──昔のことを、思い出す。
あの日。確かに、どうして逃げるんですかと、そいつは聞かなかった。どうして逃げないんですか、と、ぼくを不思議そうに見ていた。
途中からは『あなた一人で逃げてください』とぼくを突き放して一人でどこかに向かってしまった。血に濡れた、壊れた人形は、カタカタと笑う以外はしていなかったのに、どうしてか、そう感じた。
どうしてか、とても悲しくなった。誰も守れなかったし、やっぱりぼくはひとりぼっちだったのだと、思った。
お屋敷から離れて、小さな湖のそばまで来ていた。ぼくはずっと水面を見ていた。そいつは、じゃあねと無言で告げた。たぶん言葉はいらなかった。
ぼくは、ふと何かを、呼び掛けようとした。
「ごめんね」
と遮るように、掠れきってしまった声が微かに聞こえた。──それから、あいつの姿が、見えなくなったのだった。
追いかける術もなく、とりあえず、家に戻ろうとした。
だが坂道を登ってすぐの、お屋敷の門の辺りで、知らない男に止められる。ぼくの家はもう少し先だったのに──
「関係者ですか」と、聞かれた。見たことがない感じの、紺の制服の人たちだった。なんのですか、とぼくは聞いた。
「お屋敷に、知り合いがいますか」
と聞かれた。居ませんね、と、瞬時にぼくは答えていた。だけど腕を掴まれて──どこかに、連れ去られた。
最初から、話なんて聞く気がなかったのだ。あの場に居れば、それだけで良かったのだろう。
でも、そこから──そこで何があったのかを、ぼくは《本当に》、思い出せない。
ぼくは、生きてきたほとんどの過去を覚えているはずだった。映像と音声を、だいたいの、感じたものは、はっきり覚えている。
だから、きっと、あのときは心が停止していた。感情と記憶の強い繋がりを、自らで停止していたのだろう。忘れろ、覚えていてはならない。もしかしたら、そういう自己暗示をかけた。
「あいつら、か──……」
「ななくん!」
「……は、はい?」
ぼんやり窓を見ていたら、突然女性の声が降ってきて、辺りを見れば授業中。
声をかけたのは、先生だった。
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