悪いもの

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 雨が上がった後って、よく道の上に水たまりが出来ますよね。今は殆どの道路が舗装されていますけど、それでもところどころに小さなくぼみが出来てたりすると、そこに水が溜まっていたりしますでしょう。私、あれが嫌なんです。あれって、つまり水たまりのことです。雨上がりの道を歩いていて、水たまりが遠くに見えてくると、とても嫌な気がして、わざわざ遠くから避けて通るんです。  私が幼い頃は、そう、もうかれこれ二十年近く前になりますが、舗装の進んでいない所もまだ結構残っていて、土がむき出しになっているような道もあちこちに見られました。そんなところに雨が降ると、至るところに水たまりが出来るわけです。  で、そういう水たまりがあると、幼い子供ですから、わざとそこに入ってみたくなるんですよね。水たまりを見つけると、妙に興奮して、わざわざそこに両足を入れてぴょんぴょん飛び跳ねて、泥水をはね散らかしたりするわけです。子供ですから、そんな他愛もないことが楽しかったんですね。  ところが、ある日、母方の祖父と一緒に雨上がりの道を歩いていた私は、早速一つの水たまりを見つけました。この祖父は、普段からとても私のことを可愛がってくれていて、多少のいたずらをしても、「リョウ君(私のことです)は元気がいいねえ」とか言って目を細めてくれるような調子でした。その時の私はまだ幼稚園に通う幼い子供で、祖父の前で元気のいいところを見せようと思った私は、わざと勢いよく水たまりのなかに飛び込んで、ぱちゃぱちゃと水をはね散らかしてみせました。  ところが、その時に限って、祖父がいきなり「こら!」と今まで聞いたことがないくらいの大声で私のことをしかりつけたのです。  今までそんな激しい調子で叱られたことが無かった私が、水たまりのなかできょとんとしていると、足早に近づいてきた祖父は、強い力で私の手首を捕まえると、乱暴なくらいの勢いで水たまりから引き出しました。 「こんな所に入っちゃいかん!引っ張られるぞ!」  今まで見せたことのないような怖い顔で、私をしかりつける祖父の剣幕に驚いた私は、泣き出してしまいました。  流石にかわいい孫に泣かれたことで、祖父も我に返ったのでしょうか。今度は穏やかな調子で私に語りかけました。 「ああ、すまん、すまん。びっくりさせちまったな。でもな、こういう水たまりには、“悪いもの”が沢山たまってるんだ。だから、決して入っちゃいけないよ」  祖父はそんなことを言いました。  “悪いもの”というものがどんなものか、今ひとつ理解できませんでした。私が怪訝な顔をしていると、祖父は丁寧に説明してくれました。つまり、我々の周りには、“人に災いをもたらすような、この世のものでない悪い奴ら”が至る所にうようよしている。連中は、澱んだ水とか、溜まって濁った水を好むのだ。だから水たまりにはそういう奴らが沢山潜んでいる。そういう所にうかつに飛び込むと、足をつかんで連れていかれてしまうのだ。おおよそ、そんな話でした。  大人になってから考えてみれば、それは、いかにも子供だましなちゃちな怪談ですよね。そもそもその話にしたって、泥水の中で遊ぶのをやめさせるために、祖父がわざと怖い顔をしながらそんな話をしてみせただけだったのかもしれません。要は、躾のために子供が怖がるような話をする、というやつです。  でも、確かに幼い私への効果はてきめんで、それ以来、私は雨上がりの水たまりに恐怖を覚えるようになってしまいました。あの土色の水の中に何か恐ろしいものが潜んでいる。一見、小さな水たまりに過ぎないものが、実は底知れぬ深さを持っていて、うっかりそこに足を踏み入れたら、底に潜む”悪いもの”が、さっと手を伸ばしてきて、あっという間に汚い水の中に引きずり込まれてしまうのだ。そんな想像が私の中で膨らんでいったのです。結局、それ以来私は水たまりの中に足を踏み入れることは一切やめてしまいました。  それから暫く経ったある夏の日のことです。私は近所に住む健太郎君という、自分と同い年の男の子と二人で、家から少し離れたところにある雑木林に虫取りに行ったのです。その帰り道に、少し人通りの少ない未舗装の道を二人は歩いていました。まさに未舗装の道で、雨上がりの直後で、至る所に水たまりが出来ていました。早速というか、健太郎君が、一つの水たまりに勢いよく踏み出しました。ちょっと女性的な趣さえある、美少年のケンちゃん(私はいつもそう呼んでいました)ですが、そこは男の子ですから、元気よく水を跳ね返しながら、ぱちゃぱちゃやっています。 「リョウ、お前もやれよ!」  ですが、私は祖父から例のごとく言い聞かせられていたせいで、勿論断りました。 「なんだよ、つまんねえやつ」  私を小ばかにするように、ケンちゃんは一層水たまりの中で元気よく飛び跳ねていました。  ところが、急に様子がおかしくなりました。  たった今まではしゃぎまわっていたケンちゃんが、急に静かになって、動きを止めたのです。 「どうしたの?」  私の呼びかけに対し、返事もしないまま、よく見るとぶるぶる震えながら固まっているのです。  流石に様子がおかしいと思った私は近づいてみました。彼の様子をよくみた途端、私は悲鳴をあげてしまいました。  水たまりの中から一本の青白い手が伸びていて、ケンちゃんの片足をしっかりつかんでいるのです。 「……た、たすけて……」  やっとのことでケンちゃんが絞り出したか細い声が、私の恐怖心に火をつけました。  私は悲鳴をあげたまま、後も見ずに走り出していました。後ろからケンちゃんの「たすけてえ!」という絶叫が追いかけてきます。一層の恐怖にあおられながら、私は全速力で走り続けました。  そして、それっきり、ケンちゃんは行方不明になってしまったのです……  まあ、怪談としてお話しするなら、こんな感じでしょうか、へへ。ここで止めておくと、まあ、それっぽいといいますか、怪談的な怪談(変な言い方ですが)ていう感じですよね。  実は、この話、まだ続きがあるんです。  今のお話は、実は幼い時分に私の心の中で育まれた一つの思い込み、というか刷り込まれたフィクションだったんです。あえて刷り込まれた、と言いましたが、これは本当にそうで、私の両親、そして例の祖父も含めて私の家族から幼稚園児の私の頭にインプットされたフィクションだったのです。  あの時、ケンちゃんは確かに”悪いもの”に連れていかれました。ですが、それは、水たまりではなくて、路上にいたのです。  ケンちゃんは悪い大人に捕まってしまったのです。そして、とても酷いことをされた挙句に、殺されました。ケンちゃんの死体は、町から少し離れた場所まで運ばれて、放置されていました。  そうです。あの時、私はケンちゃんが見知らぬ若い男の人に連れられて雑木林に入っていくところを見ていたのです。その男は、ニコニコしながら私達に近づいてくると、ケンちゃんに向かって、「君、とっても可愛いねえ」と目を細めて話しかけました。「お兄さん、君のことがとっても気に行っちゃったんだ。いいことを教えてあげる。でも、秘密のお話しだから、あっちでお話ししないか」と言って、雑木林の方を指し示しました。一方、私には「ごめんね、君はもう帰んな。ほら、これあげるから」と言って、ポケットから飴玉を取り出して、私の手に握らせました。  確かにその男は妙に子供の警戒心を解かせるような、独特の雰囲気を持っていました。私も、この人はいい人なんだな、と思い込んでいましたし、多分ケンちゃんもそうだったのでしょう。「じゃあ、バイバイ、また明日ね」とか楽しそうに私に向かって手を振っていました。  その後、ケンちゃんがどういう目にあっていたのかも知らない私は、家に帰って、特に両親に何の報告もしていなかったのです。その後夕刻から夜にかけて、健太郎君の姿が見えないと、だんだんと騒ぎになった挙句、あらためてケンちゃんと一緒に出掛けた私が問いただされ、その時やっと、私はケンちゃんが優しそうなお兄さんと雑木林に入っていったということを報告したのです。  その後、周辺地域で大々的な捜索が行われた結果、ケンちゃんの遺体が発見されました。そして、犯人も間もなく逮捕されたのです。当時まだ二十代の若い男で、幼い男の子に性的な虐待を繰り返していました。昔からそういう人間は、この日本の至る所にいたでしょう。彼もその一人だったということです。  もしもあの時、私が帰宅して、ケンちゃんが知らない大人と雑木林に入っていったとすぐに親に報告していたら、彼の命は助かっていたのかもしれないのです。これは後から聞いた話ですが、私の両親はケンちゃんのご両親に何度も土下座して謝ったそうです。結局、私達家族はその後間もなくその場所から引っ越すことになりました。     そして、私の両親、果ては例の祖父もあらためて引っ張り出して、周囲の大人たちは、私の記憶を塗り替えることに腐心し始めました。自分はケンちゃんの命を救うことが出来たかもしれないのに、何もしなかったのだという現実を私が知ったら、私の心はショックで壊れてしまうかもしれない。それよりは、ケンちゃんはお化けに連れていかれてしまった、というストーリーの方がましだろう、という判断だったのです。家族みんなが口をそろえて、あれはお化けの仕業だったと、何度も私に言い聞かせました。やがて私の中でそれは本当の出来事として記憶の中に定着し、ケンちゃんは水たまりのお化けに足首をつかまれて連れ去られた、という話に上書きされていったのです。  先ほど申し上げましたが、犯人の男は、幼い男の子に性的な虐待を繰り返しており、実際、逮捕を契機に同様の非道が他にもいくつか発覚しました。ですが、殺人まで犯したのはただ一度、ケンちゃんのケースが最初で、そのまま逮捕されたわけです。そして、結果的には、この国の裁判所がこの男に言い渡した刑期は、たったの懲役15年でした。そう、今ではとっくに犯人は出所して、涼しい顔をして町を歩いてるんですよ。なんとも物凄い話だと思いませんか。そいつの人格がたった15年の刑務所生活で根本的に改善されるなんて、あり得ません。今でもそいつは可愛い幼児を探して町をうろついてるんです。まったく親御さんたちも心配ですよねえ。  ところで、疑問に思われてることがあるんじゃないですか?そうです。私は何故、これらの正確な事情を思い出すことが出来たのでしょう。ずっと幼い頃から事実の上に上書きされていた偽の記憶を取り去って、私はその”事実”を、いつ、どこでどうやって思い出したのでしょう。  それはね、ケンちゃんが教えてくれたんです。  大人になったある日、突然自分の頭の中にケンちゃんの声が聞こえてくるようになったのです。当然ながら、彼は私のことを物凄く恨んでいました。「お前があの時、すぐに誰かに報告していたら、俺は殺されずに済んだんだ。おれは、お前のせいで殺されたんだぞ!」  彼は、後から上書きされていた偽の記憶を引っぺがし、私の前に真実を突き付けてきたのです。  ケンちゃんの声が聞こえてくると、恐ろしさと申し訳ない気持ちで、私は二六時中、いつでもどこでもその場で泣いて謝っていました。おかげで周囲からも変な奴だと思われるようになり、会社も辞めるはめになりました。自分を助けるためとは言え、嘘の記憶を刷り込んだ両親含め、全ての家族に対しても私は強い怒りと憎しみを抱き、こちらから全員と絶縁しました。  それでもケンちゃんは許してくれませんでした。そして私に要求してきたのです。 「許してほしいのなら、俺の恨みを晴らすため、俺の命令を聞け。今度はお前があの男の役割を引き受けるんだ。可愛い男の子に声をかけ、弄び、凌辱しろ。なんなら殺してもいいぞ。アハハハハ」  私にはケンちゃんの要求を断ることは出来ませんでした。私の立場では、彼の言うことに、従うしかないじゃないですか。ねえ、そうでしょう。  ですから、刑事さん、私のしたことはケンちゃんに命ぜられるがままにやったことなんです。だから、私は無罪ですよね。責任能力無しってやつだと思うんですけどねえ、えへへへ。ダメですか?そうですか。まあ、いいです。最後のガキは大声出したから、思わず首を絞めてしまったんですが、どうせ15年もすれば出てこれるんでしょう?アハハハハハ。 [了]
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