夜空の下で

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夜空の下で

 それは、連日続く夕立がぱったり途切れたある夏の夜のこと。  気温が下がらず蒸し暑く、それでも熱気がこもるよりはとすべての窓を開け放って風を通していた。  王都に構えられた酒場。  切り盛りするのは気前のいい夫婦で、馴染みのお客達もみんな豪快で人がいい。  年頃の娘である私が勤めるには、とても居心地のいいアットホームな職場だった。 「風が強くなってきたな。フラン、看板をしまってくれ」 「はーい」  私は店の外に出ると、立て看板を両腕で抱えた。  ふわりと風が前髪をかきあげる。生ぬるかった空気はいくらか冷たくなっており、鼻を掠めるのは湿った匂いだった。 「店主。雨が降りそうです」  抱えた立て看板を店の中に置くと、店主は苦い顔をした。 「今日は夕立がなかったもんなぁ。通り雨だとしても、ひどくなりそうだ」  店主は店の奥、厨房のほうへと行ってしまった。  そこに常連客が私に追加のお酒を注文し、私は慣れた手つきで提供した。  他愛もないやりとりをして笑っていると、店主が戻ってきた。 「フラン、今日はもう上がっていいぞ。降り始める前に帰んな」 「え、ですが……お客さんもまだたくさんいますし」  夕立がなかったために夜は特に蒸し暑くなっていたせいで、今日の客の入りは普段より多いくらいだった。  まだまだ盛り上がるテーブルがいくつもある中で、私だけが先に上がるのは気が引ける。 「気にするな。……おーい、雨が降るぞ! 濡れたくないやつはとっとと帰んな!」  よく通る店主の掛け声。  客達はそれぞれに外の様子を伺うと、まばらに席を立ち始めた。 「ほら、半分以下にもなった」 「豪快すぎます……」 「いいんだよ、ここは俺の店だ。だから、フランも帰んな」 「わかりました。では、お先に失礼します」  頭を下げると、その頭の上に大きな手のひらが置かれた。髪が乱れることなど気にせずに、わっしわっしと撫でられた。 「ただ、悪いな。今日は送ってやれん」 「大丈夫ですよ」 「使えそうな常連も酔っ払っちまってる。十分に気をつけてな」 「ふふ、大丈夫です。いつもありがとうございます」  店主の手がどけられると、くしゃくしゃにされた髪がぱらぱらと落ちてきた。  適当に直していると、今度は厨房から出てきた店主の奥さんが私の髪を触った。 「年頃の子の頭をぐしゃぐしゃとなでるんじゃないよ!」 「いやぁ、愛情表現だって」  奥さんはたじたじになってしまった店主を押し退けると、私の髪を手早く結い直してくれた。 「はい、今日の賄い。持って帰って食べてね」 「わぁ、嬉しい! いい匂い!」 「お母さんの分もあるからね。たまには一緒に夕飯も食べてやんなさい」 「はい、ありがとうございます!」  奥さんから出来立ての賄いが入った籠を受け取ると、私は店を出た。  「気をつけてねー!」と声を張ってくれる奥さん。店主も、顔馴染みのお客さんも、みんな手を振ってくれた。  冷えてしまった風を頰に受けながら、私は小走りで家を目指した。  だけど、雨が降り始めるのは思ったよりも早かった。ぽつぽつと雨粒の気配を感じると、瞬く間に雨脚は強くなった。  王都の賑わう通りを抜けて、家まではまだ少し距離がある。  私は籠を庇って走りながら、雨避けできる所を探した。  すると突然、背後に人の気配を感じた。 「――失礼」  ばさり、と頭から大きな布を被せられた。  そのまま手を引かれ、声の主は私の前を迷いなく走った。  見覚えのある隊服から、恐怖や不安は感じなかった。  そうして少し走ると、ようやく大きな木の下で足を止めた。  被せてくれた布のおかげで私はそれ以上濡れず、籠の中身も無事だった。足元は致し方ないが、隣で髪をかきあげて雨水を滴らせている隊服姿の騎士には及ばなかった。 「あの、ありがとうございます」  暗がりでよく見えないが、暖色らしい髪が束で揺れる。 「いえ……いきなり失礼しました。土砂降りの中を走っていたのでつい引っ張ってしまいましたが、怖がらせてしまったでしょうか」 「騎士様だとすぐにわかったので、大丈夫でした」 「それはよかった」  ふ、と空気が柔らかくなる。  優しい声色は、私と同じ年頃のように思えた。 「でも、ごめんなさい。騎士様が濡れてしまいましたね」    被せられた布は、どうやら外套らしかった。  私に被せてくれたせいで、騎士は打ちつける雨をその身にすべて受けてしまっていた。 「あぁ、問題ありません」  騎士はそう言うと、右腕を持ち上げたようだった。  すると、暗がりの中に小さな光源が現れた。赤みがかった光は騎士の小指にあり、その光がふわりと風を起こす。  騎士の身体を覆うと途端に雨水を吹き飛ばした。次いで、私の濡れた衣服と、足元の泥水まで。  ――それは、魔法だった。 「騎士様は魔法を使えるんですね」 「ほんの少しです。この程度でも、魔法石の力を借りています」  魔法石とは、元々魔力のこもった石のことだ。  持ち主の魔力を込めることで、魔法を使った際にその力を増幅させることかできるという。  赤みがかった光を放っていた魔法石は、今度は橙色に変わった。  まるでランプのように広範囲を照らし出す。  魔法石が取り付けられた指輪も、騎士の顔も。 「……綺麗ですね」 「魔法石を見るのは初めて?」 「はい。でも、そうじゃなくて……騎士様の髪色が。瞳も、綺麗な赤銅色」  この国にはさまざまな髪色の人がいるので赤銅色はさしてめずらしくない。  けれど、騎士の赤銅色は赤が強く、濁りのない色だった。瞳も見れば見るほどに赤が深い。 「そんなことは初めて言われました」  あまりに私が見すぎていたせいか、騎士は指輪とは逆の手の甲で口元を隠し、顔を背けてしまった。 「す、すみません。不躾にじろじろと見てしまって」 「いえ……」  騎士は落ち着かないといった様子で目を泳がせていたが、ふと見上げた空に動きを止めた。  雨は少しずつ上がり始め、風に雨雲が流されている。垣間見える濃藍(こいあい)の夜空に、騎士は小さくこぼした。 「同じ色だ」  言葉の意味が理解できずに首を傾げると、騎士は私を見た。 「あなたの瞳と同じ色です」  はにかんだその顔は、やっぱり私と同じ年頃のものだった。 「僕はレイです。騎士様ではなく、そう呼んでください」 「私はフランチェスカです。フランとお呼びください、レイ」  橙色のあたたかな光の中で微笑み合うと、雨の上がりきらない夜空を二人で見上げた。
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