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二つの顔
その日を境に、レイは私を送ってくれるたびに「念のため」と言いながら手のひらを重ねてくるようになった。
場所は必ず王都を抜けた人気のない道から。明かりも少なく、たしかに日によってはぬかるんでいる日もあったけれど、ぬかるんでいない日もレイは必ず私の手を取った。
それが当たり前の毎日になっていた。
繋がる手のひらはいつまでも慣れず、熱を持ち続ける。
触れる肩は次第に遠慮がなくなり、レイとの近さを実感させた。
以前までは気兼ねなく会話できていたのに、今ではぎこちない。顔を見るのも、目が合うのも。
私は頬が赤くなるのを感じて、つい避けてしまうようになった。
それでもレイは優しく笑顔を向けてくれた。素っ気なくなってしまった私に、日に日に近づいてくるようになった。
そうして、素直になれない自分にもどかしさを感じているうちに、夏は終わりを迎えようとしていた。
朝晩はずいぶんと涼しくなったある日の帰り道。
王都の通りを抜けた先で、いつになく乱暴に、レイは私の手を引っ張った。
「しっ。声を出してはダメですよ」
ほんの一瞬の間に、私の目の前にはレイの大きな背中があった。
一体どうしたのかと困惑していると、明かりの少ない暗がりから人影が二人出てきた。背格好から男。
その手には剣を持っていた。
「フラン。僕が合図をしたら、そこの建物の影に隠れてください」
レイは私に聞こえるように囁いた。
カチ、と鍔鳴りの音が聞こえた。レイが腰に佩いた剣に手をかけていた。
男二人はどんどん近づいてくる。
一人が剣を振り上げ、レイ目掛けて突進してきた。
「行きなさい!」
レイに背を押され、私は示された建物まで無我夢中で足を動かした。
ほんの少しの距離なのに、震えてちっとも前に進まない。息も驚くほどすぐに上がってしまった。
背後で剣同士のぶつかり合う音がする。
その音が激しさを増していく中で、私はようやく身を潜めることができた。
レイのことが心配で身を引き裂かれるほどなのに、恐ろしくて遠巻きに見守ることしかできない。
男は剣を大きく振り下ろす。レイはそれを受け止めると、すぐに弾き返した。
体勢を崩した男はがむしゃらに剣を薙ぐが、さらにその剣は弾かれる。男の手を離れ、地面に突き刺さった。
レイは容赦なく、剣の柄頭を男の腹に突き立てた。男は地面に崩れ落ちた。
間髪入れずに、もう一人の男がレイに挑む。
剣先を自身の目線に合わせて水平に構え、振り下ろすのではなく突き立てようと突進した。
レイは剣を構えたまま微動だにせず、切っ先が触れる直前でひらりと身をかわした。
そして素人目では追いつけない一瞬の隙に、男の胸ぐらを片手で掴んで手繰り寄せた。
下に引っ張られた男はぐらりと傾き、その顔にレイの膝蹴りが見事に入った。
圧倒的な強さだった。
レイは男達の顔を確認すると、私に向けたことのない低い声を放った。
「いるんだろう? 出てこい」
それに反応してさらにもう一人、暗がりから姿を現した。
けれど先の二人とは違い隊服姿で、レイの前までやってくると胸に手を当ててかしこまった。
「お見事でした」
「殺してない。連れてって尋問しろ」
「御意。レインズフォード様は?」
「私はあの娘を送り届ける」
レインズフォード……?
少し離れているために確かではないが、聞き間違えでなければ覚えのある名前だった。
騎士はレイより年上に見えるが、相対する関係性は一目瞭然でレイが上だ。
一言二言、さらにやりとりをして、レイはこちらに歩いてきた。
へたり込んでしまっていた私に、いつも通りの柔らかな眼差しを向けてくれた。
「怖かったでしょう。もう大丈夫です」
「レイ、怪我は……っ」
「かすり傷ひとつありませんよ。――失礼しますね」
レイが目の前に迫ってきたかと思うと、私の体はふわりと宙に浮いた。
ごく至近距離にあるレイの顔を見上げる形になり、あまりの密着具合に、私は固まってしまった。
「いい子です。そのまま大人しくしていてください」
「じ、自分で歩けるよ……」
「今日はこのまま送らせてください」
私を横抱きにしたまま、レイは軽々と歩き出した。
流れる景色に、歩調がいつもより早いのだと感じる。歩くペースを私に合わせてくれていたことに、今になって気がついた。
こっそり見上げたレイの瞳は真っ直ぐ前を向いていて、赤みの強い赤銅色の髪がさらさらと揺れていた。
――濃藍の夜空に、なんて映えるんだろう。
あまりに見つめすぎていたため、レイに気づかれてしまった。
「どうしました?」
「ううん。レイが綺麗だなと思って」
「男に対する褒め言葉ではないですね」
「ご、ごめんなさい」
「謝ることではないですが。……綺麗と言うのは、女性に向ける言葉です」
レイは足を止めた。
揺れがなくなり、視線がぶれることなくぶつかり合った。
「僕の色なんかより、フランの深い夜空のような瞳の方が美しいですよ」
「そんなこと……」
「奥深くを暴いてみたくて、吸い込まれそうになってしまう」
レイは私の瞳を覗き込み、どんどん顔を近づけてくる。
抱き抱えられて逃げることのできない私はただ体を硬直させた。さらりと、レイの前髪が私のおでこに触れるまではあっという間だった。
鼻と鼻が……――唇が、触れそうなほどの距離。
私はぎゅっと目をつむると、レイはふっ、と笑った。唇にかかった吐息に酔いしれそうになる。
「…………でも、吸い込まれてはダメなんです」
いきなりレイの腕の力が緩み、私の体は支えなくずり落ちそうになった。
私は慌ててレイの首に抱きついた。
「レ、レイっ?」
「フラン、巻き込んですみませんでした」
レイは力強く私を抱きしめた。
その力は少し痛いほどで、私を持ち上げながらまだそんなに力があるのかと驚いた。
「……遠方に、頼れる縁者はいますか」
「縁者?」
唐突な質問に、私は考える。
「北の田舎に、亡くなった父方の祖父母がいるけれど」
「北か……王都よりは安全か」
私の答えにレイはぽつりと呟いて、顔を上げた。
「僕はあなたに近づきすぎた。己の立場を軽んじてしまった」
「どういうこと……?」
混乱する私に、レイは眉を下げた。
向けられた悲しげな笑みに胸がざわつく。
「もう、会わない方がいい」
突きつけられた言葉に凍りつく。
問い詰めることもできず、縋ることもできず。
呆然とその言葉を反芻しては意味を考え、とっくに理解しているのに、受け入れられずにまた考える。
最後に見たレイの表情が、瞼の裏に焼き付いて離れることはなかった。
それから、隣国が攻め込もうとしているという噂が出始めたのは、まもなくのことだった。
あの日からレイは私の前に現れず、代わりの護衛だという騎士がやってきた。
たしかに「レインズフォード様」の代理だと言った。
私は名前をはっきりと耳にしたことで、ようやく抱いていた疑念を確信に変えることができた。
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