仮初め後宮妃と秘された皇子

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 泰然は自分の使いの者に声をかけ、春嵐を連れて行くよう声をかけた。不意に彼を目が合い、凜風はとっさに名前を口にしようとする。 「春」 「心配しなくても丁重に扱う」  泰然に遮られ口をつぐむ。それは自分をなのか、春蘭をなのか。判断する余裕もないまま他の者の気配が消え、部屋は静寂に包まれた。  泰然はゆるやかに腰を落とし、凜風の頤に手をかけた。 「すぐに終わらせてやろう。まったく難儀なものだ。皇帝などその権力に取り入ろうと巧言令色(こうげんれいしょく)な連中や足をすくおうと阿諛傾奪(あゆけいだつ)を狙う者ばかり。求められるのは世継ぎとお飾りの立場だけ。こちらも好きで第一皇子に生まれたわけではないというのに」  皮肉めいた笑みを浮かべた泰然の顔がゆるやかに近づいてくる。唇が触れ合いそうになるその瞬間――。 「なにをおっしゃっているんですか?」  凜風の鋭い声に泰然は動きを止め、目を見開いた。改めて泰然が凜風を見遣る。先ほどまでとは違い、彼女は意志の強い瞳で泰然を見据えた。 「生まれる場所を選べないのは殿下だけではありません。誰もが皆、その中でよりよい生活ができるよう必死で抗っているんです。それでもどうにもならないことがあるのは百も承知で……」  これは珠倫の言葉ではない。嬪としての振る舞いではない。  もうひとりの冷静な自分が訴えかけてくるが、凜風の中から岩漿のような熱い想いが次々と湧き上がる。 「あなたは民の声を聞き、民の姿を見ていますか? 今もこうしている間に貧しさで飢える者や子どもを売る親が後を絶たないのです。売られた子どもがどのような生活環境にいるかご存知ですか?」  頭を過ぎるのは、自分の過去と同じような環境にあった子どもたちだ。  泰然は口を挟まず凜風の言葉を正面から受け止めている。彼の目を見つめ、凜風の勢いは堰を切ったように止まらない。 「皆、希望を捨てずに生きているんです。『白虎神が、帝様がいつか救ってくださる』と信じて、日々を乗り越えているんです」 (ああ、そうか。私、悲しいんだ)  怒りにも似たこの感情の正体を悟る。国の守り神である白虎への祈りは気休めだ。この国の頂点に君臨する皇帝陛下が、きっとの環境を変えてくれると信じていた。  身売りなど馬鹿な真似を禁止して、子どもを売らなければならないほど困窮することもない。皆が幸せで、笑顔でいられるようにしてくれるのだと。  けれど実際は違う。ただ祈ることしかできなかった幼い自分が、今もかすかな希望を抱きながら日々を生きている子どもたちが、泰然の言葉で全部無駄だと突き放された気がして、つらいのだ。 「あなたが、皇帝がすべきなのはこの国の民の暮らしを守り幸福をもたらすことではないのですか? 人の上に立つのはそういうことではないのですか?」  感情が昂り、声が震えて目頭が熱い。凜風はうつむき歯を食いしばった。 (やっぱりだめだ、私)  珠倫のようには振る舞えない。嬪としての立場もわかっていない。己の感情のままに第一皇子にこんな口を利いて、下手すると明星宮を追い出されるだけではなく、不敬罪で投獄かもしれない。  自分がしでかしたことの重大さに今になって胸が押しつぶされそうだ。
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