仮初め後宮妃と秘された皇子

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『蜘蛛くらいたいしたことないだろ』  蜘蛛を異様に怖がる凜風を見て、雇い主は鬱陶しそうに吐き捨てる。それどころか、怖がる凜風を面白がってわざと凜風に蜘蛛を近づけてきた。 『克服できるように協力してやろう』 『やめて!』  そこで目が覚め、凜風は上半身を起こす。肩を上下させ息を吐き、自身をぎゅっと抱きしめた。激しく打ちつける心臓を落ち着かせようとしばらく目を瞑る。  昔の夢、久しぶりに見たな。  ここは明星宮の女官部屋だ。周りを見ると薄明かりの中、他の女官たちは静かに寝息を立てている。凜風は額にかいた汗を拭い、すっと立ち上がった。  少し気持ちを落ち着かせよう。  音を立てないよう部屋の外に出ると、夜空にまん丸い月が煌々と輝いていた。低い位置にあるせいかいつもより大きく見え、存在を主張している。目を奪われる美しさは、逆に妙な胸騒を起こさせた。 「凜風」 (え?)  ぼんやりと月を眺めていると、不意に名前を呼ばれた、気がした。けれど空耳をすぐに疑う。こんな時間だ。辺りを見渡すが、人はおろか動物の気配だってない。  しかし、声はやけにはっきりと聞こえた。 「凜風」 「珠倫さま!?」  再度名前を呼ばれ、確信する。声の主は間違いなく珠倫だ。しかし彼女の姿はどこにもない。  どういうことなの?  珠倫のそばには、春蘭がいるはずだ。万が一など起こるはずない。言い聞かせながら凜風は寝間着姿のまま珠倫の元に向かう。  彼女の自室であり寝所は、凜風の女官部屋からそう距離はない。月明かりに照らされ、進む先に不安はなかった。  そのとき凜風の目には信じられない光景が飛び込んできた。  明星宮の中にある水路にかかる啓明橋。その真ん中に珠倫が立っていたのだ。月を背に佇む彼女は、凜風と違い襦裙をきっちりと着ているがなんとなくいつもと様子が異なっていた。 「珠倫さま!」  時間も場所も慮らず凜風は叫んだ。すると珠倫の視線がゆっくりと凜風に向いた。 「凜風」  鈴の音が鳴るようなか細い声。なにか思いつめたような珠倫の表情に、凜風は彼女の元へ駆け出す。 『目が覚めたから、ちょっと散歩に出かけたの』  笑顔でそんなふうに答えてくれるとどこかで期待していた。しかし珠倫が凜風を見たのは一瞬で、すぐに彼女の意識は水面へ向く。  一刻も早く、彼女の元へ行かないと。本能がそう告げていた。橋までたどり着き、走るたびに木でできた床版が音を立て軋む。  あともう少しで珠倫に届きそうだ。すると珠倫が妖しく笑い、身を乗り出して水面に手を伸ばした。腰を曲げ覗き込むような体勢はあまりにも危うい。彼女の長い髪が重力に従いはらりと落ちる。 「見て。月を捕まえられそうよ」 「珠倫さま!」  そのまま吸い込まれるようにして珠倫が下に重心を傾けた。珠倫の肩を掴みとっさに引き上げようとしたが、凜風の体格では支えられず彼女もバランスを崩す。  水面にたたきつけられた痛みに顔をしかめたのは一瞬で、水の冷たさと重たさに引きずられ体が思うように動かせない。それでも必死に凜風は珠倫をかばうように抱きしめた。  誰か、春嵐――。
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