0人が本棚に入れています
本棚に追加
続・春の「は」は
「ていうことがあってね⁉︎ ──うっわ通知止まらな有名人じゃん私」
優雅なタクシー出勤は街の夜景を見る他にはさっき起こったことをSNSに投稿することくらいしかなく、出勤前に投稿したシンデレラ事件の話は初日を終えて退勤する頃には軽率に拡散されまくっていた。
最初は「これが巷のやつか〜」なんて温く見守っていたものの、さすがに怖くなってアカウントを誰も見られないようにする。
職場から家に着くまでの数十分の間にも私の投稿の閲覧数は伸び続け、お風呂から出た頃には何万人もの知らない人が今夜の一件にあれこれ反応してた。うーん、ちょっと身に余るな。
端末を覗く私の顔を、ダイニングテーブルに身を乗り出した夫くんが熱心に観察しながら、例のシンデレラ事件当時の状況の質疑応答する。質疑応答というか、事情聴取というか、「頭痛は? 耳鳴りは? 頭を打たなかった?」って訊いてくるあたり、病院の問診じみてて不謹慎だけどちょっとおもしろい。食事の代わりに始めた『おはなしの時間』第一回は、どうやら健康診断になりそうだ。」
今日は月の始めで仕事始めで、色んなことの最初の日ということで、なんとか始めついでに私たち夫婦も新しい習慣を始めていて、それがこの『お話の時間』──食事の代わりの意図的な雑談の時間だった。
吸血鬼は血液しか食べない。
私みたいに人間から吸血鬼になった吸血鬼なら、血液のほかに今まで食べてきたようなご飯からもある程度は栄養を摂れるけど、夫くんみたいに生まれた時から吸血鬼だった吸血鬼の栄養源は血液のみ。それも、動物の中でも基本は人間のがいいらしい。人から吸血鬼になった──ヒト吸血鬼って呼ばれ方がある──私も、やっぱり一番の栄養源は血液なのと、早くこの体に慣れるためにできるだけ血を飲むようにしている。
夫婦共に食事を血液の経口摂取だけにしている。
するとどうなるか──そう、『夫婦の時間』が激減する。
今までは食事の時間になると勝手に家族や友人が集合して、みんな顔を合わせて、同じ時間を共有する──というのが当たり前だったけど、吸血鬼になった結果、その時間は十秒で終わるようになった。
今夜、ミズさんたちからもらった白い紙パックは補血飲料というもので、要は擬似的な人間の生き血の水割りだ。タクシーの中で十秒で飲んだ。以上。
あれで、私の今日一日分の食事が終了だ。ひょっとしたら明日まで保つんじゃないかな……。
あれからキビキビ九時間働いて体力使ったけど、未だにお腹が減る気配はない。
これもまたヒトによるけど、どうやら私は結構燃費のいい吸血鬼のようだった。
吸血鬼になると、生活の中から〈食事〉に関わる時間が消滅する。
今までの人生において、食事の時間は誰かとの関係を温めるのにとても役立つ時間だった。
生活の中に、家庭の中に〈食事〉の時間があると、自然とそこに家族が集合して同じ時間を過ごす。それが今までの私の生き方だったから、生活の中からそのフェーズがぽっかり抜けちゃった今、同じ家で暮らしているのに夫くんとどう時間を共有すればいいかわからない。お互い交わる時間もないまま日々が過ぎていくのは寂しくて、昔よりご飯の味を感じないことよりそっちの方が味気ない気がした。
そこで私たちが始めたのがこの『お話の時間』だ。
食事という誰かとの関係を温めるために使ってきた便利なコンテンツが無くなった代わりに、こうしてお風呂の後に集合してただ話すための時間を作ることにしてみた。
なんでも試してみないとわからない。
「お尻打ったりしてない? 数え酔いしたとか投稿したりしてない?」
「してない、してない。横のフェンスがクッションになってくれたし、タクシーのこともそこまで詳しく書いてないよ」
安心して、と言いつつ、グラスでちびちび水を飲む。喉が乾いてるわけじゃないけど、話す時は惰性で何か飲みながらじゃないと手持ち無沙汰になることがわかった。
右手の中でグラスを転がしながら、重くなりすぎないごめんなさいの言い方を探る。
「心配かけてごめんね?」
「無事でよかったよ。でも、びっくりしたでしょう?」
夫くんが心配そうに、頭をクルクル振りながら私を覗き込む。
頭を動かすのは夫くんが困った時によくやる癖だ。
「したけど、でも、一旦治ると全然なんでもないんだね? 数え酔いって、目眩とか貧血とかとおんなじかと思ってたけど、全然違う。酔った瞬間は『終わったー』って思ったけど」
私を送り出す時、ミズさんが「一応、病み上がりだから」って言ってたけど、一応って付けるのも大げさなくらいその後も今も体調は良かった。
むしろ、流れる景色の光の数とか、職場でシュレッダーの中身をうっかり見ちゃったけど数えないでいられたってことは、もしかして数え酔いを克服できたのかもしれない。
吸血鬼は数を数えるのが得意だ。噂には聞いていたけど、いざ自分が吸血鬼になってみると、その変化が一番不思議でおもしろかった。
ヒトにもよるけど、吸血鬼なりたてホヤホヤの私でも500くらいの数なら一瞬で数えられる。千を超えると頭がグラグラして酔っちゃうけど、世界の見方が変わったみたいで少し楽しい。
先輩吸血鬼の夫くんは、花びらや石畳には特に気をつけなさい、魚は切り身を買いなさいって言うけど、正直私はもう数に負けないと思う──。
「もう全然平気だね。あれから全然数えてないし。全然平気」
「平気だったのは君が数え癖を克服したからじゃなくて、その人の処置のおかげだよ。鼓動を数えさせてくれたんでしょう?」
「え? あ、あぁ、うん……」
右手を心臓のすぐ上に当てられた時のことを思い出して、思わずグラス越しに右手をまじまじと見た。「っ」
数え酔いをして、一番危なかった瞬間の記憶だ。
命の危険、とまではいかなかったけど、確かにあの時のヒヤリとした感覚はまだ生々しく残っていて、そのまま残りの水を一息に煽り右手を硬く握り込む。
「数え酔いには視界を閉ざして鼓動を数えさせるのが一番なんだ。でも、僕たちの手に心臓を貸してくれる人なんてそうそういないんだからね? たまたまその人が特別だっただけで……、と言うか、その人もよく君が数え酔いだってわかったね」
「あぁ、うん、……うん。なんかすごい慣れてるっぽかったよ? ブラッドパスまで持ってたし」
都会の方だと、補血飲料が買える自動販売機がたまにある。
誰でも買えるわけじゃなくて、共生局から貰えるブラッドパスをかざさないと買えないから、『ブラッドパスを持ってる=吸血鬼』、もしくは『家族の中に吸血鬼が居る人』だ。
前者はともかく、後者は結構ハードルが高いと聞いた。
「ああ、それなら狩人……共生官かもね。共生官はブラッドパスが貰えるから」
共生官。今は『共生委員』って名前のはずだけど、訂正しないでおく。
「あ、それでお母さん共生局に入れってうるさかったんだ? でも、共生局の人ってほんとに居るもんなんだね。もっとヤバい人たちなのかと思ってた」
「地方だとなかなか見ないだろうけど、六松市は共生局の支部があるから」
「そうなの? あ、だからブラパ使える自販機多いんだ」
べんり〜、と手を叩く私に、夫くんは小さくため息を吐く。
「だから引っ越すんだよ、って前に話したの、覚えてないね?」
ごめんね、って思うけど、ヘラっとしていることにする。
夫くんの〝前〟は平気で半世紀〝前〟のことだったりするから。
「明日から平気かい? やっぱり、慣れるまで家からタクシー使う?」
「そんなお金ないない! 今回の引っ越しでスッカラカンだもん。──大丈夫! さっき網戸見てみたけど全然平気だった」
「あぁ、隠しておいたのにどうして……」
堂々と自慢する私に夫くんが頭を抱える。
吸血鬼の家には網戸が無い。
〝網目を数えてしまうから〟。
いわゆる地元ルールみたいなもののようで、この部屋の網戸も引っ越してすぐ夫くんが全部外してどっかにやったらしい。けど、あんな大きいもの、隠せる場所は限られてるもの。
「網戸見て平気なら、他も楽勝でしょ?」
「それはまだ今日感じた鼓動を覚えてるからだよ。明日には忘れちゃうだろうから、また沢山
を数えると、次はそのまま朝まで動けなくなるかもしれないんだからね? 慣れるまでは十分すぎるくらい気をつけないと」
いい? と夫くんが首を伸ばして私を覗き込んでくる。
「はぁい」と子どもみたいな返事をすると、夫くんは納得してくれたのか、スッと首を引いて満足そうに頷いた。
「ずっとじゃないよ。慣れたらほら、お花見だって行けるから」
「ほんとに?」
「本当さ! この街で手ぶらで夜桜見物だけしてるヒトの九割は吸血鬼だよ」
「どのくらいで慣れる? 三日?」
「んッフフっ、そうだねぇヒトによるけど、君は早そうだし、二年くらいかな?」
「二年⁉︎ 二年もこんな感じなの⁉︎」
「心配ないよ、二年なんてあっという間さ。君もいつも言ってたじゃない、『歳とると一週間がほんとに早い』って。それを百回くらいやるだけだよ」
「それはそうだけどそれはそれでしょ? ──二年かぁ……」
長くて一ヶ月もあれば楽勝でしょ? なんて思っていた自分の皮算用にため息が出る。
思っていた以上に、人から吸血鬼に変わるってことは面倒なのかもしれない。
「共生局の手続き超えたらもうあとはウハウハ新しい体ライフだと思ってたのに……」
「君は皮算用で家が建つねぇ……。大丈夫、ちゃんとご飯食べて練習したら、一年とかからないかもしれない。今日だって、仕事してたら一日があっという間だったでしょう?」
「だからそれとこれとはー……」
「そうだ、仕事! 今日から新しい職場だったでしょう? どう? 仕事は気に入った?」
仕事の話になった途端、夫くんは目を爛々とみなぎらせ、机に乗り出して大きな目いっぱいに私を覗き込んでくる。
「うん! それはもう!」
「ホウ!」
「みんないい人そうだし!」
「よかったねぇ」
「全然名前は覚えらんないけど」
「大丈夫大丈夫! 人でしょう?」
「でも仕事の方はなんかいい感じっぽいよ!」
「素晴らしい!」
よし! と今日一番のキレのある動きで夫くんがガッツポーズをする。
「いい仕事に巡り会えたんだね!」
「うん! 期待してたよりずっと!」
「素晴らしい! じゃあ、二百年くらいは飽きずに続けられそうかな⁉︎」
「え……、いや、二百年はさすがに……、職場が保ってないんじゃないかな……」
急に飛び出た長大な数字に思わず飾り気のない冷静な反応をしてしまう。
ほら、私は私で時間をどんぶり勘定しがちなところがあるけど、夫くんも夫くんでどんぶりだ。
ハレー彗星を二回リアルタイムで見ている長生きさんな夫くんの時間感覚は、同じどんぶり勘定でもどんぶりの大きさが私みたいな(元)人間とはまるで違う。
私たちが時間を勘定するときの丼の大きさがラーメン鉢くらいだとすると、夫くんの丼の容積は五十mプールくらいある。
吸血鬼は寿命が無い──正確には老衰で亡くなった例がまだ確認されてない──から、長生きの吸血鬼は平気で何百年と生きている。夫くんもそういう吸血鬼だった。
故に、未来のことや過去のことに思考を飛躍させる時の最小ロットが私たちと違うのだ。
普段はできるだけ人間基準の時間に換算してくれる夫くんも、興奮してくると感情がちょっとバカになっちゃう。そこがかわいい。それがいい。でも嘘を言ってがっかりさせるのは可哀想だから、正直に難しいものは難しいって言う。私がいい仕事を見つけられるかどうかは、彼が特に心配していることだから。
「景気は良さそうな職場だけどさすがに百年先でもあるかどうかは……。……仕事の方もだけど」
今日から始めた新しい仕事が、百年先も存在するかどうかはちょっと危ういところがある。
確かに楽しそうな仕事ではあるけど……、もし百年後に同じ仕事が存在していたとして、その仕事をやっていたいか? と言われたら、今の時点だとちょっと答えるのが難しい。
「そう、そうか……」
乗り出していた身を引っ込めて、見るからに肩を落として夫くんは小刻みに首を動かす。
今日一番の動揺ぶりだ。やっぱり、このヒトは私の〝仕事〟が気がかりなんだろう。
「でも、仕事の内容自体は納得いってるんでしょう? 飽きずにやれそう? もう飽きた?」
「う、うん。大丈夫、まだ初日だし、っていうか、飽きるも何も仕事は仕事だから……」
そう、仕事は仕事。楽しい・やりたい、があるのが理想だけど、年金も社会保険もない吸血鬼がお金を稼ぎ続けるには、楽しい・やりたいばかり言ってる場合じゃないのが現実だ。
やんわりそう伝えると、前にこの話をした時と同じように、夫くんは静かに首を振って、私の主張を否定した。
「いいかい」
諭すように、懇願するように彼が口を開く。
「これは……、これだけは何度も言わせてね。──君はこれから数え切れないほどの時間をこの世の中で生きることになるんだよ。その間、君は飽きずに生きていくために、お金を稼がなきゃいけない。けれど、もし君がお金のためだけに、君が楽しめない仕事をしていたら、君は奴隷になってしまって、そこで君の人生は終わってしまうんだ」
「……」
「もし二百年先に君を雇う会社が残っていないなら、二百年先もその仕事が残っていないなら、君が商売を始めなさい。君が飽きることのない、君の力で、君を納得させられるような商売を、君が始めて君の生業にしなさい。いいね……?」
──君を飽きさせてはいけないよ。
まるでおなじないのように繰り返されるその言葉は、彼の丸い大きな目から私の中にまっすぐ飛び込んできて、脳の、体の奥底まで染み渡るような迫力だった。
いいね? の後に、かくん、と頷くと、夫くんは安心したように微笑んで瞬きをする。
その刹那。ふと、〝おまじない〟には良いおまじないだけじゃなくて、悪いおまじないもあるってことが思い出されて、ハッとして私は彼から目を逸らした。
水を飲もうとして、もうグラスの中は空っぽで、そうださっきあの男の人のことを思い出して飲みきっちゃったんだと思うと余計に決まりが悪くなって居ても立っても居られなくてもう使われないキッチンに逃げ込んだ。
「大丈夫、そのうちきっと見つかるから」
グラスに浄水器の水を溜めながら、背中越しの夫くんに言う。
「……そうだね、まだ、始まったばかりだもんね」
「心配しすぎだよ」
「うん、不安にさせるようなことを言って、すまなかったね」
「ううん、私が心配だからって、わかってるよ。今の仕事を悪く思ってないのも、わかってる」
「……ありがとう」
そっと椅子を引く音がする。
「もうすぐ夜明けだよ。先に寝てるね」
「うん、おやすみなさ──あ!」
「へ?」
「これ、仕事になるんじゃないかな⁉︎」
クルッ、と振り返って夫くんを見ると、夫くんは豆鉄砲くらったような顔をしていた。
「正直さ、二百年後とかわかんないって思ったけど、ほら、吸血鬼のヒトと人間の時間の感覚差ってすごいでしょ? 実際、前の職場でもプロジェクトのスパンの考え方が全然違う人がいてさ! だから、そこをこう、上手く調整したり、あと、サブスクの解約とか更新忘れがちな吸血鬼の人に『あっという間に一年経ちましたよ〜ブラパの更新手続きしてください〜』ってお知らせするサービスとか! 代わりに手続きしてもいいし!」
「素晴らしい! いいね! 特にブラッドパスの方は僕の知り合いみんな一度は失効させてるから、本当に助かるよ!」
「まあ問題は、私もそういう手続きすごい面倒だなって思っちゃうタイプってところなんだけど」
ハハハ、と空笑いすると、肩透かしをくらった夫くんは、
「そこも君らしくていいね」
なんて穏やかに笑いながら、寝室に入っていった。
「……」
夫くんの居なくなった3LDKのLDKの部分はとても静かで、夜明けを前にどこかの家がシャッターを上げる音が聞こえてくる。
その音で、さっき網戸を数えに行った時に上げたシャッターをまだ下ろし忘れていたことに気づいて、慌ててシャッターを下ろしにいく。夫くんは太陽が苦手だ。今は私も少しだけ。
昨日よりもひどい曇りの空は、東の空の端が少し明るく感じる程度で、夜明け前というより日没後の気配がした。
でもその中に、微かに人々が動き出す音が、湿り気を孕んだ風に乗って耳に届いて、ああ、本当は、今から新しい今日が始まるはずなんだな、とそんなことを思った。
頬にピリピリと太陽の気配を感じながら、まだ寝ているご近所さんを起こさないよう慎重にシャッターを下ろしていく。
その金属の幕が降り切る刹那、シャッターと外の境目から、ウインナーを焼く匂いが飛び込んできた。
懐かしい。
私はこれが大好きで、これこそが朝ごはんの匂いだと思っていた。
階段の下から漏れてくるウインナーの匂いに、よだれがじゅわっと出てくるのを感じながら、家族の居る食卓を目指すのが好きだった。
お腹の減る匂い。大人になっても結局これが一番好きだった。
「……」
今はもう、食べ物も、食べることも必要ないけれど。
何の残り香もしない食卓を通り過ぎて、グラスを洗いにキッチンへ。
後悔なんてなかった。
吸血鬼になったことも、吸血鬼になることでしなきゃいけない面倒な手続きも、ご飯を食べる時間が無くなることも、最初からわかってたし、数え酔いの不安だって、新しい生活を始めるための必要経費かな? なんて思ってた。
飽きない仕事を探さなきゃいけないってプレッシャーも、ほんとのところはよくわかってない。
追々わかっていけばいいよ、なんて考えてる。だって、実際まだ私じゃわからない感覚だし。
だから、吸血鬼になったことに後悔も、怖くもなかった。
ただ、一つだけ。
「……ふー」
グラスを水に当てる。
スポンジで軽く洗って、泡を水ですすぐ。
キュ、と音を立てられるくらいピカピカのグラスを水切りかごに逆さまに置いて、まだ水の滴る冷たい右手を、自分の左胸にそっと置いた。
あの時。
数に酔った私の右手をあの人が自分の心臓の上に乗せてくれた時のこと。
さら、とした布の感触の下で感じる生血の温度と、この手の真下にあった心臓の鼓動。
どくどくと蠢く脈動に、この中にいっぱい血が詰まってるんだ本能的に感じて、顎の奥から、じわ、と唾液が染み出してきた時。私は、
このまま爪を突き立てれば──。
そんなことを困惑する脳の片隅で、本能の一番奥の方で考えた。
瑞々しい果物を握り潰してジュースみたいに嬉しそうに飲む自分を想像した。
朝の楽しみだったウインナーを焼く匂いじゃなく、私はたっぷり血が入った恩人の心臓の方にヨダレが出るようになったのだ。
冷たい手を自分の胸から離して、そっ……、と確認する。
見ると、少し爪が伸びている。
今日家を出る前に切り揃えた左手の爪と比べれば一目瞭然だ。
私が怖いのはこれだった。
私が思ってるよりもずっと、私は私がよく知らない生き物の体になっているのかもしれない。
夫も予想しないような速さで。
何かが私の中で始まっていて、それも明らかにこれまで経験してきたあらゆる〝始まり〟とは全く異なる現象が私から始まっている。
それを私はどう受け止めるべきなのかまだ答えが出せないでいる。
何もかもがこれまでと違う。
ドキドキするのは、きっと良い予感の方だといつも信じてた。
まだ、信じられるだろうか。
そのために、知らなきゃいけない。
自分がどういう生き物になったのか。
そして、見つけなきゃいけない。
新しい私が、新しい人生に飽きずに、この体で生き続けていくための仕事を。
自分が満足できる仕事を見つけることがこの不揃いな爪を隠すための手段になるのだろうから。
まずは副業のつもりで探してみるかな?
共生局に行ったら、また吸血鬼でもできる仕事を紹介してもらえるかな?
その時、あのちょっと変わった二人組は居るかな。
居たらいいな。
ちょっとキザっぽい人と、優しくてモジャモジャ頭の人が一緒に働いているところを想像すると、少し笑えた。
寝室では、夫くんが寝息も立てずに寝ている。
このヒトだって不安はあるだろうに、今はこんなに無邪気な顔で眠ってる。
心配性なこのヒトが、こんな風に穏やかに居られるところをずっと見ていたい。
そのためなら、百年だって、千年だって、ずっと隣りで生きていたい。
この街で。いつか、街の形が無くなる日まで。その先も。
そのためにも、私は私を知って、私を飽きさせない方法を探してやろう。
夜が明けて、日が昇って、落ちて、また夜になったその時に。
「おやすみなさい」
鼻の奥に、焼けたウインナーの残り香を感じながら目を閉じる。
新しい一日のために、今は眠ろう。
新しい街で、新しい仕事と、大切な人と。
新しい私の体と、共に生きるを始めよう。
続
最初のコメントを投稿しよう!