プロローグ 春の「は」は

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プロローグ 春の「は」は

 四月一日。六時。最初の一歩はいつも軽い。  カーテンを開けた先、新しい我が家のベランダから見下ろす新しい街の景色は新鮮で、まばらに点いた家々の灯りに、思わず目が奪われそうになる。  まだ寝てる夫くんを起こさないように部屋を出て、ダンボールを積みっぱなしの玄関に向かう。  〈靴〉と書かれた箱から、この日のために買った新しい靴を取り出して踵を通すと、早く歩き出したくてウズウズした。これこれ、春って言ったらこれだ。靴ヨシ、服ヨシ、お守りヨシ。  知らない街へ踏み出すこの瞬間が好きで、独身時代は転勤の多い仕事ばっかりしていた。  新しい街、新しい職場への最初の一歩を踏み出すために、ドアを開ける。  これから、私の新しい仕事が始まるのだ。  どんな人に会えるんだろう。  新しい街、新しい職場。そして、新しい私。何もかもがこれまでと違う。  新しい世界が始まる。 「いってきます」  つま先が軽い。  目的地は決まってるけど、どこまでも行けそうな気がする。  もうケチの付けようがないくらい、最高の一日(ついたち)気分だ。  唯一ケチを付けるなら、思いっきり曇天ってことくらいかな──。  思わず真顔になってしまうのを、唇をキュッと吊り上げてごまかした。笑顔は魔除け、笑顔は魔除け。  やめなさい、って言われたけど、つい癖で家を出る瞬間に空を見上げてしまう。  空はこんなに曇っていて今にも雨が降り出しそうだというのに、天気予報アプリのポンコツは堂々と『晴れ』だなんて宣ってる。この嘘つきめ、なんて思って、それからはたと、そういえば今日はエイプリルフールだったことを思い出した。……え、そういうこと? いやいや。いやいやいや。  まあ、曇ってる分にはありがたいからいいけどさ。  言いつけ通り、前だけを見て真っ直ぐ歩く。言われなくても、そうするけどね。  新しい最寄り駅までの道で、7人のリクルートスーツの子たちとすれ違う。ああ、これこれ。  さすがに私はもうリクスーじゃないけど、自分の新卒の頃を思い出してイヤホンのボリュームを上げた。  昔からそうだった。新学期とか、入学式とか、入社日とか。新しい環境に飛び込むのは不安な人がたくさん居るのは知ってるけど、私はとにかく楽しみでたまらなかった。引越しだってそう。  アパートの更新の度に引っ越してたから貯金は無いけど、老後の心配は無いし、大丈夫でしょ。  知らない街の、知らない道が自分の新しい通勤路になるのが楽しくて、ワクワクしちゃう。  入学シーズンの四月はとくに。  自分も周りも新生活に染まっていくこの季節が好き。今年の春は、とくに。   春の〝は〟は、〝始まり〟の〝は〟だ。  きっとこの、変な二人もそうじゃないかな?  横断歩道の手前で、私の前で立ち止まった二人組はどうにも妙な取り合わせだった。  ヒョロ、としてて髪も髭もモジャモジャのメガネの人と、スラッとしてて何にも興味がなさそうな人。  なんて言うか、同じクラスだったら絶対に友だちになってなさそうな属性の人たちってかんじなのに、雰囲気はどこか朗らかしてる。  おまけに、すごく背が高い。  失礼だよ、って夫くんに嗜められそうだけど、自販機より背の高い人っていまだに新鮮で、それが二人も居るって初めてで、信号待ちで後ろに並んでからずっと二人の会話が気になっていた。  高い、というより、もう〝長い〟だな。とくに、こっちの毛量が多い方に至っては。で、ヒョロってしてる人の隣りはそのボディーガードなんだ。着痩せして見えるけど、あの黒いジャケットの下は結構ガッチリしてるのが今の私にならわかる。筋肉質な匂いがするもの。なんて失礼なことを次から次へとあれこれ考えながら、そのモジャモジャでひょろっとしている人がやけに熱弁を奮っているのが気になって、イヤホンを片方だけ外してみた。 「……てなって、でさ! オープニングで主人公の目線が一カットだけ下手から上手にいく演出があるじゃん、あるんだけど俺あれは二期の伏線だと思っててていうのもあの製作会社ではあの監督と脚本家のタッグってもうオハコでこの二人がオリジナルやるイコールそれすなわち……」  わ、すご、電車が通ったのかと思った。  特急が通過したのかと思うような早口の熱量を、隣りのすごいクールそうなかんじの人が楽しそうに受け止めてる。  ──あ、なんか私たち(ウチ)っぽい。  この、片っぽが夢中になって話すのをもう片っぽがふんふん聞いてる感じ。  夫くんと私そっくり。  接点無さそうなのに、仲良さそうなのもうちと一緒だ。  どうやら新しい春アニメの話をしているらしい。話してるって言うより、喋る方と、聞く方ってかんじだけど。ラジオのパーソナリティーとリスナーって言うのがちょうどいいかもしれない。  そんなことを考えてたら、話題もちょうど四月から新しく放送されるラジオ番組に変わった。  そうそう。春って、新しいアニメや番組も始まるから、やっぱりほら、春の〝は〟は始まりの〝は〟なんだよ。  心の中でうんうん頷いていると、ふいに相槌担当の人がお喋り担当の人の肘を引いた。あ、まずい、聞いてるのバレた? と焦った次の瞬間、信号待ちをしていたこっち側とあっち側の26人が一斉に歩き出して──ああ、なるほどね、あの相槌担当の人は青信号に変わるタイミングがわかってたんだ。  この二人もこの街に住んでるのかな?  そんなことを考えながら、後ろを歩く。  きっと二人も駅に向かってるんだろうな。  知らない場所で前を歩く人は、みんな自分と同じ場所を目指してるんだって思ってしまう。ウキウキしてる時はとくにそう。この人たちについていけば、目的地に着くだろう。なんて考えて安易に着いていって大失敗したことがあって以来、むやみに人に着いていかないようにしてるけど、この二人は続きが気になるな、なんて思った。  この学校の裏を過ぎれば駅。って、地図が言ってる。この時間に駅に行く人は少ないのか、通りにはあの背の高い二人組と自分くらいしかいない。やっぱりあの二人も駅に行くのかな、なんて思いながら遠くの背中を見つめつつ数m後ろを歩く。目印になる人が居るのはありがたい。  慣れるまではよそ見せず、目の前の人の背中を見てなさい、って夫くんも言ってたし。  こんな時間だっていうのに遠くの校庭では39人の野球部がまだ練習していて、たわんだ水色のフェンスとツツジ越しに吹奏楽部のオーメンズ・オブ・ラブが聴こえる。ああ、この曲。  懐かしいなあ。入学式、いや、部活紹介でやるのかな。  たしか自分の時もそうだったと新学期のことを思い出して、つま先がもっと軽くなる。  思えば私の〈始まり事〉好きは、中学から始まる〈部活〉という未知の文化への憧れから始まったのかもしれない。  晴れやかな管楽器と打楽器の音に、お上手だ、なんてうんうん頷く私の目の前を、ひらひら、と桜の花びらが泳いでいく。8、11、12。  あれ、もう咲いてるんだ。34。こないだの昼間、暑かったらしいからなぁ。  長い冬の間、ずっと枝の間を空っぽにさせていた桜に花がつくと、それだけで街の景色が一変する。そこから一気に時が流れ出す気分になって、なおのこと心が高揚する。  ひら、ひらららら──。流れていく花びらに心が躍って、思わず目で追ってしまって、そして、その流れ着く果てまでを見送ってしまった。246。「あ」  足元に無数に広がる花びらの数が、一斉に頭の中に飛び込んでくる。  ──春と秋は下を見てはいけないよ。  地面に散らばる2538の花びらに夫の言葉を思い出して、反射的に目を閉じ空へ顎を突き出す。危ない、危ない。  ──僕たちは数えてしまうから。  動悸と耳鳴りの中、必死に彼の声を頭の中に呼び出して、何度も深呼吸をする。  今朝寝る前の、なんてことのない雑談の記憶に耳をすませて、お守りのように彼の言葉を反芻する。  ──大丈夫、大丈夫、目を閉じれば数はないから。  大丈夫、大丈夫、目を閉じれば数はないから。  心臓の騒ぐ懐かしい感覚を宥めつつ、次第に落ち着いてきた動悸に胸を撫で下ろす。  本当にこんな風になるんだ……。  自分の体の変化にそら恐ろしいような気配を感じるのを、唇をキュッと吊り上げてごまかす。  そうだよ、何にも変わらないんじゃ面白くない。  ちょっと不安があるくらいが、始まりにはちょうどいいんだから。  そうこなくっちゃ。  何かが始まる時、気分が高揚するのと同じくらい、本当は不安もある。  希望と不安が同じくらいの熱量でこんがらがりながら私の中を駆け巡るから、そういう時、私は「これは楽しい方のドキドキなんだ」って決めて、前に進むことにしてる。  だってそれを超えないと、何も始まらないんだから。  ふう、と肩で息をして、呼吸を整える。  顔を地面から上げて、前を向いてゆっくり目を開いていく。  少しつまずいたけど、ここから今日を、始まりをやり直そう。  そうしていつもの癖で最初の一歩を振り上げる瞬間バッと空を見上げたのが、失敗だった。  ──晴れの日は空を見上げてはいけないよ。  ドッ、と無い心臓が騒ぐ。  あ。  ──星を数えてしまうから。  やっちゃった──。  途端、見上げた先に何千と広がる桜の数が脳の奥を締め上げた。 「っ!」  目を閉じて──!  わかっているのに体は一瞬で石になったように動かない。  目に飛び込む無数の数の概念は、花びら一枚一枚がまるで肌の上を這い上がってくるようなおぞましさで、悪寒に喉がグッと詰まる。花じゃない。死骸にたかる蛆の大群を見ているみたいだ。私がその死骸の方になったみたいだ。  目は閉じられなかった。花を数える方に脳が奪われて、目の閉じ方も、地面の立ち方さえも忘れてしまって、視界が横なぎに流れていくその間も目は蛆のように夜空にたかる桜の数を数えていた。  あ、だめだ──。  他人事のように考えるのと、ガシャン──と耳のそばでフェンスが軋むのは同時だった。 「大丈夫ですか⁉︎」  体が錆びたフェンスに押し付けられてすぐ、その悲鳴は聞こえた。  呆然と見開いたままの視界にこちらに駆け寄ってくる二人の人が見える。  交差点からずっと前を歩いていた、あの背の高い二人組だ。  少し高い声はあの早口のモジャモジャ頭の人の方だ。  一生懸命走ってくれるけど運動は苦手なのか、長い足が今にももつれて転びそうで、危ないなあ、なんて頭の片隅で思ってる間に、もう一人の方が私のすぐそばに来ていた。 「ミヅ! そのひとっ──」 「わかった」  ミズ、と呼ばれたその男の人は、硬直したままの私の目を見るや「失礼」と低い声で囁いて、気づけば視界が黒い布で覆われていた。この人が着ていたジャケットかな。……消毒液の匂いがする。膨大な数の奔流から解放されて、それだけで少し脳が楽になった。 「目は使わずに、右手に意識を。集中して」  右手。  言われて初めて、自分に右手があったことを思い出した。  大きな手に握られて、自分の右手が何かに触れる。  手のひらには、さら、とした布の感触と、暖かい人肌の温度を感じる。そしてこの手の真下に、どくどくと蠢く心臓の脈動を感じる。この中にいっぱい血が詰まってるんだ本能的に感じて、顎の奥から、じわ、と唾液が染み出してきた。すごい、こんな風になっちゃうんだ。 「鼓動を数えて、私に続いて。一、一、一……」 「……ぃ、ち、いち、いち、一……」 「上手。そのまま落ち着くまで数えててください」  右手の下にある鼓動の数を数えていると、次第に自分の動悸も治ってきた。  いつの間にか耳鳴りも消えて、代わりに遅れて到着したらしいあのモジャモジャ頭の人の荒い息遣いが鮮明に聞こえる。  二人は何かボソボソ会話して、モジャモジャ頭の人の方はまたどこかに走って行ったみたいだった。 「数え酔いは初めてですか?」 「へ?」  落ち着いてきた頃、不意にそんなことを訊かれた。  相変わらず真っ暗なままの視界の中に落ちてきた声は低くて、穏やかで、こんなことには慣れっこ、ってかんじだった。 「……はい」 「転化したのは最近?」 「えぇ、と……、先月、で……」 「その日の天気は?」 「え? ……えっと、くもり……?」 「曇り。素晴らしい。曇りの日に生まれたヒトは仕事に困らないと謂います」  ハハっ、と軽快な調子でミズと呼ばれた人が笑って、自分の胸から私の手を離した。 「恐がらせてしまったら申し訳ありません、なにぶん、緊急時でしたので」  言いながら、私の容態が落ち着いたのがわかったのかゆっくり体を起こしてくれる。 「目を閉じて」  何をするかがわかって、囁かれた通りに目を閉じる。  お医者さんの指示に従ってる気分だ。  お医者さん? そんなはずないか。  する……、と視界を覆っていたジャケットが剥がされて、土の香りがする風が瞼の上を通っていく。  お医者さんでないなら、そうだな……、……そう、手品師みたい。 「もう大丈夫です。『今夜は月も数えない』」  おまじないのようなその言葉の後に目を開くと、思ったよりも近くに男の人の顔があって、びっくりして仰け反ってしまった。 「わ!」 「おっと」  体を倒した拍子に背後のフェンスに頭を打ちつけそうになるのを、男の人の手が庇ってくれる。  結果的に助けてくれた人の顔にびっくりして、恩人の手の甲を硬いフェンスに打ちつけさせる形になってしまい、恥ずかしさと申し訳なさでしどろもどろになった。  すみません、の言葉しか出てこない私を男の人はにこやかに遮って、 「どうかお気になさらず。それより、元気になられたようで安心しました」  するするそんなセリフが出てくるこの人は、本当に何の人なんだろう?  急にヒトが道で倒れたっていうのに慌ててる様子が一つもなくて、だからこそ私も最初はパニック状態だったのが、だんだん何でもなくなってきた。  謝罪もそうだけど、まだお礼も言えてないことを思い出して「あの……」と口を開いた時、今度は別の方向からバタバタと慌ただしい駆け足が聴こえて、私も男の人もそちらを向いた。 「ありがとう。悪いな、走らせて」 「ぜんっゼン……」  手を膝に、全身をふいごみたいに動かしながら息をして、モジャモジャ頭の人が答える。 「ハァ、ハァ、大、丈夫……、ですっ、か……? っゲホ、ゲホッゲフッ! すっ、ませ……!」  全然大丈夫じゃなさそうなその人は、関節をパキパキ言わせながらしゃがんで私を覗き込んでくれた。  きっと、すごく優しい人なんだろう。  そして、本当に普段全く運動しない人なんだろう……。  どうやらすぐそこの自販機まで走ってくれたみたいなんだけど、十m×二本を走っただけでこれだけ息を切らしているのを見ると、次はこの人が倒れてしまいそうで心配になった。  バタバタ足の裏で地面を引っ叩きながら走るフォームといい、私の友だちと同じ、体育を親の仇と思って生きてきた人に違いない。  見たかんじ二人とも三十代前半くらいだけど、三十代の体力ってそんなもんなの……?  ハラハラする私の方はもう心配ないと判断したのか、ミズって人はモジャモジャの人の方に移動すると、薄い背中を撫でながら、さっき私にしてみせたみたいにゆっくりと呼吸を整えるのを手伝ってあげていた。なるほど、ミズ氏はこの人と居るからこんなに急病人慣れしてたんだな。 「え、えぇおかげ様で……、私の方はもう……」 「こ、これっ、ゲフ、飲んで……」ください、は咳を堪える腕の中に吸い込まれていった。 「あ、あぁすみません! ありがとうござぃ……、え?」  慌てて受け取ってお礼を言う。やっとありがとうを言えた安心感は、手渡されたものと目が合った瞬間どこかにいってしまった。  咳き込む男の人と渡されたものとをまじまじ見返してしまう。  その手のひらサイズの小さな白い紙パックは、普通の人は飲まないどころか、買うことだってできないモノで、買える場所だって限られてる。だからこそ、夫がいつもお守りとして持たせてくれているものだった。こんな学校のすぐ近くの自販機で売ってるようなものでもない。本当は。 「あの……」  いや、きっとそんな気はしていたけど、でもっ、なんでこの人にわかるんだろう……。  そう思って、そういえば最初に私のこと(・・・・)に気づいたのもこの人だったと気づいた。  ああ、なるほど、そういうことか。  こういう時、どんな反応をしたらいいかまだわからない私をよそに、呼吸が落ち着いたらしいその人は、握り締めていたブラッドパスをミズさんに返していた。  え、そっちの人もなの?  確かにこの街は多い(・・)って聞いたけど、そういうこと?  混乱して目をパチパチさせる私に、モジャモジャの人は汗みずくの顔でにこりと微笑んで、ミズさんに支えられながらゆっくり立ち上がった。「さんきゅ、ミヅ……」「どういたしまして」  それを追うように私も立ち上がる。  さっきまでの猛烈なめまいが嘘みたいに体が軽い。  視界が動く時に桜の花びらがいくつか目に入ったけど、ミズさんの言葉通り全然気にならなかった。 「桜はお好き?」  ふふ、とミズさんが薄い唇を緩ませる。  細い目とその下の深い隈が一緒に弧を描くのを、確かめるように眺めてしまう。  ……やっぱり普通の人に見える。 「ええ、はい……。うっかり目で追っちゃって……」 「この辺は桜の名所ですもんねぇ。僕らもよく原稿の合間にこの辺でお花見してて! ついつい見入っちゃいますよねぇ」  えへへ、とモジャモジャの人が大きな目を緩ませて笑う。  口元を確認したかったけど、髭でよく見えなかった。  転化すると気付けなくなる、っていうのは本当みたいだ。 「ここの桜、名物なんですか? 私、実は引っ越してきたばかりで……」 「え、そうなんです?」キョトン、とモジャモジャの人が目を丸くすると、少女漫画みたいな表情になる。 「やっと昨日引っ越しが終わって、街をちゃんと歩くのも出勤するのも、今日が初めてなんです」  と言うと、へえ、とミズさんも目を少しだけ大きく開かせた。  それから二人は目を合わせて、同じタイミングでパチパチ目を瞬かせたあと、まるでそれだけで打ち合わせが完了したみたいに同じタイミングでにっこり笑う。 「それはいいタイミングでお会いできました」とミズさん。 「わあ〜、俺が引っ越した時のこと思い出した〜! 『昨日』! へえ!」  フレッシュ〜! と身を捩らせるモジャモジャの人。  やっぱりこの二人もこの街の人らしくて、なんだかそれが妙に嬉しかった。  とくにモジャモジャの人の方は私と同じ『始まりごと』好きのようで、初出勤、初出勤と口の中で繰り返している。 「失敬、これからお仕事でしたらお急ぎですよね?」  お時間は? とミズさんが時計を見せてくれると、時刻は十八時(六時)を半分以上過ぎていた。 「えっ、うそ⁉︎ ヤバ⁉︎」  もうすっかり元気になっていた私は二人にぺこぺこお礼を言って、その場を後にする。  ここから駅まで迷わずダッシュで行けば──、アッこれダッシュでも間に合わないか⁉︎  まだ数歩も走らないうちに二人の元に戻って、 「すみませんっ、近道っ、駅まで近道わかります⁉︎ それか##ってビルなんですけどっ!」  恩人への別れの挨拶にしてはちょっと不躾だけど、なにぶん、緊急時デスノデ。 「え⁉︎ っと、ここ真っ直ぐ行くのが最短で……!」  どうしよう⁉︎ と私以上に焦った顔でモジャモジャの人がミズさんに助けを求める。  一緒になって私もミズさんにバッと振り向くと、パニック二名をよそに、ミズさんは涼しい顔で通りに向いて手を閃かせていた。  え? と呆気に取られている私たちとミズさんの前に小粋なタクシーがス……、と停まる。 「ご期待にお応えできないお詫び、と言ってはなんですが」  バスっ、と開かれるタクシーのドア。  まるでシンデレラの馬車だ。 「ヒュ〜!」  さっすがミヅ〜! とモジャモジャさんがはしゃぐ。  え、なにこの仕込みみたいなタイミング?  これに乗れと?  思考が停止する私の前で、タクシーの中に半身を潜らせたミズさんは運転手の人に何か伝えると、シャララララン、と魔法みたいな音を立ててスマートに電子決済。 「え? え?」  まさかまさかと慌てる私をモジャモジャさんがタクシーの中に押し込み、ドフ、とドアが閉じられる。「まじ⁉︎」  ンィイイイ……、と運転手が気を利かせて下げたサイドウィンドウにミズさんが腰をかがめる。 「一応、病み上がりですので。ご自愛ください」  ──素敵な靴で走っちゃだめだよ。  ふふ……、というミステリアスな笑みが、イイイィン……、と閉じられるガラスの向こうに消えていく。 「え⁉︎ ちょっ⁉︎」  今日から初出勤の私を乗せたタクシーが、職場のある##ビルに向かってゆっくりと走り出す。  その間もガチャガチャ窓を下げようと慌てる私を見かねて、運転手の人が窓を開けてくれるのを待ちきれず、半分空いたドアから声だけでも外に放り出した。 「すいませーーん! ありがとうございます〜‼︎ あとお名前ー……!」  我ながらドップラー効果めいた叫び声になっているだろうと思う。  少し恥ずかしいけれど、それ以上に立て続けに起こった出来事と果たして仕事に間に合うのか⁉︎ の焦りで心がドキドキしっぱなしだった。  未練がましくゆっくり閉じられていくタクシーの窓に、「お気になさらずー!」とモジャモジャさんの声が聞こえる。  タクシーはいよいよスピードを上げ、もうここから先は声なんて届かないだろうという地点に差し掛かった時、最後にもう一度、モジャモジャさんの楽しそうな声がした。 「ようこそ! この国でいちばん吸血鬼のひとの多い街・六松市へ!」  幸あれ〜! と長い手を振るモジャモジャさんが、その隣りで控えめに手を振るミズさんが、夜の彼方に消えていく。  たった十数分の間に、随分いろんなことがあった。  吸血鬼(この体)になったが故の出来事に最初は恐ろしくもなったけど、でも、きっとこの始まりは、悪いことばかりじゃない。  何もかもがこれまでと違う。  ドキドキするのは、きっと良い予感の方。  新しい街、新しい仕事、新しい人、新しい私。  新しい世界に、この体で、会いに行く。 「いってきます」  私の始まりは、まだまだこれからだ。
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