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吉高は「行って来るよ」と車のエンジンをかけた。手摺りに掴まりながら「気を付けてね」と手を振る妻、吉高は一泊二日の京都大学病院で開催される学会に参加すると偽の印刷物まで用意した。そして自宅から然程遠くない兼六園下のバス停留所で恋人と待ち合わせ、金沢の奥座敷と呼ばれる湯涌温泉へと向かう。
「先生、おはようございます」
「おはよう」
紗央里は悪びれた様子も無く黒のBMWに乗り込んだ。助手席の不倫相手を苦々しく見た吉高はやや棘の有る声でその名前を呼んだ。
「紗央里、こんな人の多い停留所を選ばなくても良いだろう」
「だって、家から近いんだもの」
紗央里としてはいっその事、医局の同僚に見られたいと思っていた。それは仙石医師の不倫が公になれば離婚し自分と再婚するだろうという浅はかな考えだった。
「まぁ、良いけど」
「あ、ここ、先生のお家がある所ですよね」
「近いな」
吉高の運転するBMWはクリーニング店の前を通り過ぎ、職場である金沢大学病院を横目に湯涌町へと向かった。紗央里は誇らしげにそれを見遣った。なにも知らないあの女は家で夫の帰りを待ち、同僚たちはナースコールに右往左往している。青空が眩しく心は弾んだ。
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