明穂

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「じゃ、ちょっと休むね」 「夕ご飯には降りて来なさいね」 「分かった」  明穂は階段を上り2階の自室へと向かった。現在(いま)の新築の手摺りはまだ硬く手のひらに馴染まず他人顔をしている。然し乍ら幼い頃から掴まって上った実家の木製の手摺りの表面は滑らかで心が落ち着いた。 (ーーーーふぅ)  自室の扉を開けると懐かしい匂いが明穂を包んだ。家具の配置は今も変わらずそのままだった。窓ガラスを開けると夏の湿気を含んだ夜風がカーテンを揺らした。 ぎしっ  明穂は窓際のベッドに腰掛け大智との無邪気な時間を思い出した。 <ほら!受け取れ!> <な、なに> <そこだよ、左ひだり!>  ベッドの上には紙コップが落ちていた。 <引っ張るぞ、離すなよ!> <こ、こう?>  明穂の自室の向かいが大智の部屋だった。椿の垣根を挟んだだけの距離は糸電話で2人を繋いだ。 <耳、耳に当てろ> <うん>  大智の息遣いが聞こえ、それは木綿糸を伝って明穂の耳に届いた。 <付き合ってくれ> <え!> <でけぇ声出すなよ、ばばぁが起きるだろ> <ばばぁって口悪すぎ> <明穂、好きだ。付き合ってくれ>  それは明穂が高等学校に上がり大智が電子機器の会社に入社した春、沈丁花(じんちょうげ)の花の香りに()せ返る深夜の逢瀬だった。ただその恋は5年で終わりを告げ大智は渡航し行方知れずとなった。   「明穂ちゃん、僕と結婚してくれないかな」  その後明穂は吉高と結婚したが、実はその間も大智は明穂に手紙を送り続けた。然し乍らそれらは吉高の手で封印された。 (大智の手紙を隠してまで吉高さんが守ろうとしたものはなに?)  処女を捧げた吉高はたった2年で明穂を裏切った。この結婚に元より愛情はあったのだろうかと目頭が熱くなった。 (大智の事、嫌っていたよね)  比較され続けた双子の兄弟は明穂を真ん中に微妙なバランスを保っていた。それが大智と明穂が交際を始めた事で脆く崩れてしまった。吉高は大智が大切にしていた明穂を奪う事で優位に立ちたかったのかもしれない。 (それなら良き夫であり続けて欲しかった)  まるで自身を景品の如く扱われた事に明穂は悲嘆に暮れ、次第に腹の底から沸々と激しい怒りが湧き出すのを感じた。 (吉高さんと紗央里さんには相応の屈辱を味わって貰おう)  そこで明穂の携帯電話が大智からの着信を知らせた。
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