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陽炎が揺れる点字ブロックに白杖が律動的な音を刻み明穂は歩みを進めた。その左手は大智の肘に添えられ2人は並んで歩いた。機械的な鳥の囀りで横断歩道が赤信号になり大智は前屈みになって明穂の唇に口付けた。
「誰も見ていない?」
「見ていないよ」
その傍を小学生のランドセルが筆箱の音を上下させて通り過ぎた。「ね、ちゅーしてたね」「してた、おじちゃんとおばちゃんちゅーしてた」明穂の頬は真っ赤になって大智の腕を引っ張った。
「いるじゃない!」
「良いじゃん、清く正しい性教育だよ」
「なに言ってるの!もう!」
夏の盛り、吉高と明穂の離婚が成立した。吉高は白山麓の白峰村に移住し大智は小立野の実家に戻った。
「よっしゃ、頑張って歩くぞ!」
「何処に行くの」
「県立美術館のケーキ屋!」
「カフェね」
「途中でバテたら公共交通機関な」
「タクシーね」
油蝉の鳴き声に首筋を汗が伝った。「よーーっしゃ着いたぞ!」大理石の薄暗い美術館は空調が程よく効いて生き返った。
「涼しい」
「文明の発展は素晴らしい」
「なに言ってるの」
ル ミュゼ ドゥ アッシュ KANAZAWA は石川県立美術館を包み込む本多の森に店を構えるパティスリーカフェだ。能登出身のパティシエールが営む有名店、カフェはオープン直後で全面ガラス張りの窓際に座る事が出来た。
「静かだな」
「でも、少し人の気配がする」
「世間は夏休みなんだよ」
「そうなのね、さっきの子たちは終業式だったのかな」
「そうじゃねぇか、朝顔の鉢植え持ってたぞ」
「朝顔の鉢植え」
明穂は窓の外の緑を無言で眺めた。明穂が小学3年生の終業式、小学6年生だった大智が明穂の朝顔の鉢植えを持ち、吉高が書道セットの鞄を持って家まで送ってくれた。
「明穂、抹茶好きだよな」
「あ、うん」
「えーーーと、よく聞けよ。西尾抹茶とやらの杏子のコンフィチュール、コンなんたらってなんだ。キャラメルクリーム、げ、甘そうだな」
「美味しそう」
「じゃあそれで良いか」
「うん」
運ばれて来た抹茶のケーキとほうじ茶の香がテーブルに立ち昇った。明穂はくんくんと匂いを嗅ぐと頬を綻ばせた。その可愛らしい仕草と面差しを、大智は片肘をテーブルに突いて穏やかな眼差しで見守った。
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