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『気晴らしに(たき)さんの見舞いに行くか』  そんなことを言うから、千乃は、見舞いを気晴らしと言ったことをオーナーに報告しますよと、(おど)けた言葉で返した。    千乃が縷紅草でバイトを始めた頃、オーナーの滝野瀬(たきのせ)はまだ現役だった。と言っても、毎日出勤してくることはなく、体調のいい時だけ顔を出すと言ったペースでだ。  千乃の境遇を八束が話したかどうかは知らないが、滝野瀬は千乃を可愛がってくれた。  七十歳を目前に悪性腫瘍に侵されたと知った時、彼の余命宣告も同時に知った。膵臓が沈黙の臓器だと言うことは、素人の千乃でも知っている。  病名が確定したと同時に、予後が発動されることも。  今どんな状況かが容易に分かってしまえるのが悲しかった。  ずっと前に聞いたことがある、昔の滝野瀬の話しを。  今よりもっと生き辛い時代に、自身の嗜好をどうすることも出来ず、持て余していたことを。  それこそ罪人を見るような目で見られ、そんな中でこの縷紅草を作り上げたと言うことも……。  「あ、そう言えば、手ぶらで来ちゃいましたけど、今から売店で何か買ってきましょうか。あ、でも、花も果物も売ってないか……」  エレベーターへ乗り込み、六階のボタンを点灯させる八束の背中に聞いてみた。 「あ……見舞いの品か。いや、手ぶらでいいだろう。それに今日は千乃が一緒だからそれで十分だな」 「何ですか、俺って果物の代わり? 喜んでいいんだか悪いんだか……」 「千乃の可愛い顔見りゃ、滝さんは喜ぶんだ。孫だと思ってるんだぞ、きっと」  背中越しに八束が言う。顔がよく見えなかったけれど、心做しか声が沈んでいたように聞こえた。    六階に到着し、千乃と八束は出会した看護師に会釈で挨拶を交わし、廊下奥にある個室の扉の前で立ち止まった。『滝野瀬(たきのせ)久経(ひさつね)』と書かれたプレートを横目に、ノックをして扉に手をかける。 「滝さん、入りますよ」 「おお、八束。久しぶ——千乃! 千乃じゃないか。久しぶりだなぁ」  扉を全開すると部屋の奥から声がし、腕に点滴チューブが繋がれた滝野瀬が歓喜の声を発した。 「体調大丈夫ですか? ちゃんと食べれてます——って、そんだけ大声がでりゃ安心ですね」 「おいおい、来た早々いちゃもんつけるのか。千乃の顔を見たんだ、大声も出るさ。それにちゃんと食ってる、今朝はバナナ一本食えたぞ」  頭にニット帽を被り、痩せこけた頬で滝野瀬が得意げに笑っている。  二ヶ月前に見舞いに来た時は、今よりもう少し頬がふっくらしていたように思え、痩軀(そうく)に見える姿に流涙しそうになるのを堪え、千乃は側にあった椅子を八束に差し出した。 「バナナか、すごいじゃないですか。この間は水も口に出来なかったのに。次来る時は、皇室御用達のバナナでも献上しましょうか」 「そりゃまたデカく出たな。けどそんな高級なモン食ったら腹壊しちまうわ。俺は露天商が売るバナナで十分だ」 「バナナの叩き売りですか? 今そんな商売してる人いませんよ」 「そりゃそうだ」  か弱い声で八束と笑い合う滝野瀬を見るのが日に日に辛くなる。そんな理由で病院へ足を運ぶのが減っている自分に、千乃自身許せなくも思っていた。 「滝さん、水飲みますか?」 「ああ、もらおうか」  八束が枕の位置を変えると、側にあったクッションを千乃はすかさず痩せ細った背中に挟んだ。上半身に角度をつけると、吸飲みにペットボトルから水を足し、八束が慣れた手つきで弱々しく開く口元へと運んでいる。  目の前にいる二人の姿に、千乃はまだ元気で施術をしていた滝野瀬の姿をダブらせ、瞼の裏が熱くなった。 「どう? もっと飲みます?」 「いや、もういい。それよりもどうだ、縷紅草(みせ)は」 「変わりないですよ。客もみんなも……」  手が届きやすい位置に吸飲みを戻すと、八束が椅子に深々と腰を下ろしながら答えた。 「そうか。ならいいんだ……、千乃はどうだ。就活、上手くやっているか」  八束の隣に座った千乃は「内定もらいました」と、満面の笑みを意識して言った。 「そりゃめでたい! 何か祝いをやらないとな。何がいい、千乃。何でも買ってやるぞ」  目を糸のように細め、滝野瀬が言うから泣きそうになる。  辛い過去がいっぺんに吹き飛ぶほど嬉しい言葉に、感情を必死で堪えていても千乃の涙腺は限界に来ていた。 「……あ……の、俺。ちょっと飲み物買ってき……ます」  俯きながら立ち上がって部屋を後にした。きっと泣いていたことは二人にはバレている。  売店でペットボトルのお茶を三本買うと、千乃はエレベーターの中の鏡で泣き顔を確認した。 「やば……目が赤い。くそ、こんなんじゃオーナーにバレてしまう」  手の甲で擦ると余計に悪化し、買ったお茶で目を温めながら病室に戻り、扉を開けようとして千乃はその手を止めた。 『千乃に本当のことはまだ話してないんだろう』 『まだ……話せてません』  掠れた滝野瀬の声が聞こえ、千乃は自分の名前が出たことに、僅かにだけ開いた扉を途中で止めた。ベッドを囲っているカーテンの向こうで、二人のシルエットが会話を続けている。 『そうか……。八束、お前、縷紅草にきて何年になる』 『八年……ですかね。店を引き継いでからはまる五年目ってくらいです』 『もうそんなになるか……』 『……ちょっと横になった方がいいですよ。身体、休めましょう』  八束の言葉で中の様子が見えなくても、滝野瀬を労り、ベッドに寝かせているのがわかる。 『……俺は秦野(はたの)——院長からお前の話を相談されて心配だった。嫁さんがあんな逝き方すれば気が狂ってもおかしくないってな。案の定、自暴自棄になったお前は、後輩のミスを被ったよな。自分が起こした医療ミスだって』  ——あんな逝き方? 八束さんの奥さんのこと……だよな。どう言うことだろう……。それに俺に話してないことって何のことだ……。  滝野瀬の脆弱した声が八束の過去を語っている。千乃は扉に隙間を作ったまま、部屋の中へと耳をかた向けた。 『……あの事故は、俺が側で視ていたんです。防げたかもしれないのに俺は茫然として判断が遅れました。だから……あれは紛れもなく俺のミスなんですよ』 『そのセリフは何度も聞いたな。あの時のお前の目は生気の抜けた、生きた骸のようだった。そんなお前を医者にしたままなのは、危険だと思った。だから俺は院長に辞めさせるよう言ったんだ』 『……さすがだなって、後になって思いましたよ』 『お前は根が真面目だ。それが災いして自分を縛りつけて、生きにくくしちまってるんだ。だからお前を俺の店に誘った。店にいて客を見てりゃ自分の悩みなんて、ちっぽけに思えるかもしれねーってな』  ——医療ミス? 八束さんが? でも、オーナーの言い方は、誰かを庇ったって……。それが原因で病院を辞めたってこと……?     心拍数が徐々に上げってくる。幼くて知らなかった医者の八束。縷紅草で一緒に働くようになってから見てきた八束。  どちらの八束も頼り甲斐があって、優しい人だ。ただ、不意に千乃に向けてくる苦しそうな視線がずっと気にはなっていた。  真相が分かる気配に、千乃は顔をグイッと隙間に寄せた。   『縷紅草って花の『縷』は細い糸って意味があるんだ。細い蔓が糸のように巻きついてんだよ。それに花色の紅が合わさって無数の花を咲かせる。寒さに弱いが暑さには強い花なんだ』 『一縷の『縷』と同じ字ですよね』 『……ごく僅かなって意味だ。人ってのはさ、自分の中の抑え切れない、湿っぽくて寒々しい感情に、簡単に捕らえられちまうんだ。それがごく僅かなもんでも、油断してるとすぐ肥大する。誰しもがドロドロしたもんを持て余し、吐き出せずにいる。快楽だってその一つだ。その抱えてるもんが蔓のように根を張り、心を縛りつけていつか動けなくしちまうんだ』 『特に性的嗜好なんて、気楽に話せるもんじゃないですしね……』 『誰にも言えない。言えばどんな反応されるか想像するだけで、怯える人間も少なくない。けど、蔓が離れないまま生きて行くのにも限界があるのさ』 『分かります……。俺もそんな人間の一人ですから』  八束の切なそうな声で、今どんな表情をして話しているのかが千乃には想像できた。  滝野瀬達の言っていることは千乃にもわかった。縷紅草にくる客は心に巣食う、仄暗いものを解放したくて足を運ぶ人がほとんどだ。  來田から聞いた、イヴとアユムの話もそうだ。彼らのような人のために、縷紅草はあると千乃も思っている。  そして彼らと同じように、八束も何かを抱えていたのだ。 『やっぱりお前は真面目だな』 『……俺は、真面目なんかじゃないですよ……。千乃にだってまだ、真実を話せてないんですから』 『お前の身体に開いた穴はデカい。一人じゃ埋める事は出来ないだろう。千乃だってそうだ。腹割ってあいつと話してないんだ、相手の頭の中覗けるわけでもねーし、千乃の何がわかるってんだ? お前に』  バシッと音が聞こえ、八束の、()ってーと言う声が聞こえた。  きっと、滝野瀬に叱責を受けたのだろう。千乃は想像してクスッと口元を綻ばせた。 『でも俺は……あいつが自分を責めないか恐いんです……。話すことで千乃に追い討ちをかけるんじゃないかと……』 『千乃はお前の嫁さんの死因を知らない。あの子の記憶にある真実と、実際に起こった事実はきっと同じじゃない。千乃の苦しみは、別のところにあるんだろうからな……』 『俺は……あいつと話すことを避けてきた。ずっと曖昧にやり過ごしてきましたから』 『千乃も大学三年だ。店で過ごせる時間も後少しだろう。今までみたいに側にいられる時間も持てなくなる。お前が千乃を守りたいってのにも限りがあるってことだ』 『限り——か。子どもの成長は早いですね』 『何、じじいみたいな事言ってやがる。しっかりやってくれよな、店長さんよ』  会話の後、二人の囁くような笑い声が聞こえてきた。  千乃はお茶を抱えたまま、部屋に入るタイミングを悩みながらも、心に決めたことを頭に叩き込んだ。  ——奥さんの死因に自分が関わったいたのか、八束さんが俺に話してくれるまで待っていよう。たとえそれが悲しい話でも……。  千乃は深い深呼吸をして、ドアをノックした。
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