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夕間暮れが支配する部屋に、長く伸びた影が一定の動きを床に映している。
殺風景な景色の中には机に向かう背中と、テーブルの上には、乱雑に置かれた小瓶が余光で光っていた。
部屋の中には陶器と筆が触れ合う音と、微かな吐息だけが音叉のように共鳴している。
昼過ぎまで布団の中にいた由元柊は、起き抜けに塩だけで味付けした握り飯を二つ食べた後、箱庭に置かれた置物のようにずっと同じ場所に座り続けている。
何枚もの白い皿の中では、色とりどりの液体が筆でかき回されている。
毛束に色が染み込むと、下書きされた和紙の上を色が滑っていき、幾度となく繰り返され、シンプルだった形に命が吹き込まれたように鮮やかな絵が完成する。
部屋から見える木々の隙間に、今にも沈もうとしている微光がスポットライトのように震えるスマホを照らしていた。
かまわず無視していると、スマホは静かになった。しかし数秒後、再び羽音のように振動するから、柊は舌打ちをしながら乱暴に掴んで通話ボタンを押した。
「はい……」
『あ、由元先生。山脇です、お忙しいとこすいません』
電話の向こうにいる声に、柊は不愉快を込めた溜息を吐いた。だが、山脇の方が上手だった。毎度の事だと理解している相手は、柊の態度にもお構いなしに会話を続けようとする。これも毎回お決まりだった。
『先生、以前に依頼していた、海老原様の絵の進行具合はいかがでしょうか? 先方から矢のような催促でして——。いやね、私もアートディーラーの顔がありますから、あまり期限を伸ばすと——』
「出来てる。取りに来い」
『え! 出来てる? もー、先生そうならそうとお知らせ下さいよ。てっきり私はまた——』
「煩い。来るのか来ないのか、どっちだ」
『えっ、行きます。行きますとも! これから伺っても?』
「ああ」
『わかりました! ではこれからすぐ——』
山脇が最後まで言い終わらないうちに、柊は終了ボタンを押していた。
スマホをまるでゴミ箱へ捨てるかのよう、ソファの上へと投げると、再び机に向かい筆を動かしている。
「煩い蛆虫だ。俺の邪魔をしやがって」
舌打ちを連打しながら呟くと、柊は机の上に置いてある書きかけの和紙を両手で掲げてみた。
紙の中央に描かれた塗りかけの絵を指先で辿ると、恍惚とした顔になり、柊の口はだらしなく半開きになっていく。
「綺麗だ……興奮するな……」
絵に見惚れていた柊は徐にズボンをずらすと、下半身を剥き出して既に屹立しているオスを引き出し、右手で触れてみた。
ジトっと汗ばむそそり立ったそれを、力を込めて握り締めてみる。
背筋にゾクリと快感が走り、抑えきれない衝動に煽動されると、柊は右手を激しく上下させた。
数回シゴくと、唇からは自然と喜悦の声が漏れる。
脳が痺れる感覚に襲われながらも、仕上がった絵に目を向けた。
粘着質な音と荒い息遣いが混ざり、自分の声に興奮する。
そうするうちに、頭が真っ白になり、白濁した生暖かい液体が手のひらに吐出された。
とくとくと脈打つ動きに抗うよう、深く息を吐いて汚れた手を上着の横っ腹あたり擦り付けた。
一時の劣情が過ぎ去ると、机の引き出しに手をかけ、柊は中から一枚の古びた切り抜きを取り出した。ずいぶん前に刊行されたから雑誌から剥ぎ取られたその記事には、いかにも偉そうな出立ちの男とその家族が写っている。
男の脇には見慣れた顔の女と、高級そうな制服を纏った少年が写っていた。 異国の子供かと見紛う茶色の髪と眸。欲しいものは全て手に入る身分なんだろうと想像できるその姿に、柊はペーパーナイフで写真の細い首筋をなぞった。
これまで何度も切り刻みたい衝動に駆られていた。だが、たった一つの生きる糧を失うと思うと、既のところでいつも踏みとどまるのだ。
数え切れないほど見つめてきたその写真。
柊の前頭葉は成長した彼を想像した。いつか出会うために……。
記事を引き出しに戻し、転がる小瓶達の中から、紅い水干絵具を皿に少量移した。サラサラとした紅い粉状を指の腹で少し押し潰すと、膠を数滴垂らして筆で軽く混ぜる。
血のように染まった指先を天井へと掲げると、柊はまた横っ腹で指を拭い、先に染み込んでいた精液を紅く染めた。
汚れた手のまま筆を掴み、筆先を浸らせて再び和紙へと色を落としていく。
描かれる絵に命が吹き込まれていく程、柊の目は異形に変わっていった。
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