fétiche（フェティッシュ）

３

　刑事達が店の中から消え、八束と二人きりになった千乃は、唇を動かそうとしつつ、言葉を飲み込んで俯いてしまった。声にすると忘れられない過去が、一気に襲ってくるのが分かっていたからだ。

「……千乃は藤永さん——あの刑事と知り合いだったのか……」
　尋ねていいものかと戸惑っている八束を前に、千乃は黙考していた。
　この質問を投げかけられるのは分かっていたし、刑事と知り合い——それも何か訳ありだと言わんばかりの態度をとってしまったのだから当然の質問だ。

　話せばあの時に受けた痛みが蘇るのが想像できる。しかし、八束には伝えなければと思い、意を決して告白しようと千乃は顔を上げて見せた。

「はい……。あの、八束さん。店終わった後、時間ありますか」
「あ、ああ。俺は構わないけど千乃は明日、大学なんじゃ——」
「平気です。明日は三限からなんで」
「そうか……いいよ、わかった」

　八束の返事を聞くと、千乃は予約リストを確認しようとファイルを手にした。
　無言で客を迎える準備をしながら、頭の中では冷嘲する藤永の顔が千乃の決意を怯ませる。
　変わってない……あの頃と同じ、大人で冷たそうな眸……。でも、久しぶりに大学で会ったときは、さっきとは別人のように微笑みをくれた。眩しすぎて戸惑うくらいに……。

　油断すると挫けそうでも過去を封じ、ようやく前へと進むことが出来始めている。
　犯した罪を償ったとも思っていた。だが、そう思っていたのは自分だけだったのだろうか。

　ネロリの精油をアロマポットへ垂らしながら、千乃は縋るように眞秀の笑顔を呼び起こした。けれど、それさえも許されない事なんだとかぶりをふって自身を責める。
　些細なことでも、藤永を鬼に変えてしまう引き金になるとわかっているから……。

　最後の客を見送ると、千乃は幻月の部屋へと戻った。
　フェティシズムで、被虐性欲のある常連に使用していたアイマスクや緊縛用の麻縄を片付けながら、ふと千乃は縄を持つ手に視線を落とした。
　もう三年——いや四年近くになるのか……。

　もう会うことなどないと思っていた人。
　封印していた過去が一気に解き放たれ、千乃は自身の腕で震えそうな身体を支えると、手の中からするりと麻縄が溢れ落ちた。

　眞秀への後ろめたさはとうの昔に消滅し、もう誰のことも好きにならないと決めていた。だがそれは自分に言い聞かせた、ただの自己満足なだけかもしれない。

「千乃、終わったか」
　部屋の掃除を済ませ、電気を消そうとした所へ様子を見に来た八束に声をかけられた。　思いを巡らせていた場所から、スッと意識が戻ってくる。
「あ、はい。ちょうど今——」
「そうか。珈琲入れたから飲むか」
「頂きます……」
　話すきっかけを作ってくれようとする八束に倣い、待合室のソファへと腰を降した。
　煎れたての香りが心を和ませ、千乃を安定に導いてくれようとする。

「お前が煎れてくれるのより味は劣るけどな」
「そんなことないです、美味しいですよ」
　たわいもない会話でタイミングを見計らう中、掛け時計の秒針が耳へ刺さる。
　静寂が強調された空間に、先に口火を切ったのは八束だった。

「さっきの話しの続きだけど——」
「はい……真希人さん——さっきの刑事さんは、俺の親友のお兄さんです。高校の時、眞秀と出会って真希人さんともその時、知り合いになりました」
「そうだったのか。そんな繋がりがあったとは……」
　親友の兄、ただそれだけの間柄ではないと言うことは、見抜かれているだろうと、八束の態度で千乃は自覚していた。

　急かすこともしない、八束の柔らかい言葉尻の音に安心させられ、千乃は次の言葉を切り出しやすくなった。こんな風に空気を読むことが出来るのは八束が大人だからなのか、医者だったからなのか。
　千乃はそれに甘えるよう、一人で抱えていた過去を今は全部聞いて欲しいと思っていた。

「八束さんは気付いてると思うけど、俺はゲイ…… なんです」
「まあ……な。でもそんなの今どき珍しくないだろ」
「ですね……」
　珈琲の入ったカップを手で覆うと、人肌のような温度に心地よさを感じ、千乃は音を立てないよう静かに喉へと流し込んだ。

「お前がゲイなのと、藤永さんと何か関係があるのか」
　問われた言葉に千乃は首を横に振った。
　少し肌寒く感じる体とは真逆に、手のひらはじっとりと汗が滲んでいる。

「俺は女の人が苦手だったんです、と言うか怖かったのかも知れません。それがきっかけなのか分からないけれど、自然と目が行くのは同性でした」
「まあ怖いだろうな。俺はお前の過去を少し知ってる人間だ。あんなことがあれば、女性を怖がるのは無理ないのかも知れないよ」
　八束の言葉に千乃は意表を突かれた。
　その感情はすぐさま顔に現れ、硬直していた筋肉が弛緩していく。涙腺も同調したのか、瞼が熱くなってくる。
　ここで泣いては話が先に進まない。千乃は精一杯微笑んだ。それがぎこちない笑顔と思われても。

「……知ってたんですね。そりゃそうですよね、八束さん、俺の主治医だったんですから」
「主治医か……そう言う風に言えば聞こえはいいよな」
　俯き加減に視線を逸らす八束に、千乃は続きの言葉を綴ることに躊躇してしまった。
　当時、まだ九歳の子どもだった千乃の記憶には、八束が自分を卑下する意味が分からなかった。
　このまま話を続けることで、八束を苦しめてしまうのではと、ふと思ってしまったからだ。

「八束さん、あの……」
「ああ、悪い。嫌なこと思い出させたか……」
「いえ、平気です。俺は運がよかったんですよ、八束さんや眞秀に出会えて」
「藤永さんの弟か。似てるのか？」
「いえ、全然。性格は真逆ですよ。眞秀は超が付くほど鈍感だけど、真希人さんは——あの人は怖いくらい鋭くて感がいい人です」
「だろうな、俺も初対面の時に分かったよ。あの人が刑事なのは天職だろう、きっと」
　苦い笑みを含み、敢えて明るく振る舞う八束に応えるよう、千乃も「ですね」と返してみた。

「で、千乃はその弟君に惚れてたってことか」
「……鋭いですね、八束さんも」
　感がいいのは八束もだったと千乃は思い出した。ゲイなのは、八束と初めて出会った頃には開花してない性的指向だった。にも関わらず、秘匿にしていたことを知られていたのだから。
　大学に入った頃、立ち寄った本屋で偶然再会し、バイトに誘われてから今日に至るまで、ひた隠しにしていたマイノリティーな空気を、八束はとっくに感知してたのだ。

「千乃が親友君の話をする時、嬉しそうだったからな。でも、時々それが寂しそうにも感じたのは、俺の気の回し過ぎだったかな」
「やっぱ感がいいです八束さん。俺、高二の時、あいつに告ったんです。でもあいつは無邪気に俺のことを一番の親友だって嬉しそうに言うから……」
「ちゃんと言えなかったか」

「……どうなのかな。うまくかわされたのかもしれないし、天然だから気付かなかったのか……。けど、こっちは簡単に切り替えられなくて。三年に上がる前にあいつの家に遊びに行った時、俺……気持ちにケリをつけるつもりで、眠った眞秀にキス……したんです」

「へー。それは……なんて言うか、オクテな千乃には相当な覚悟だったんじゃないのか」
「です……かね。でもそれを真希人さんに見られてしまって……」
　千乃は膝の上に置いていた手のひらを握り締め、こぶしの中で自身の犯した罪を後悔するよう、身体を固く強張らせた。

「そう……だったのか」
「真希人さんは俺らより八つ上で、初めて会った時にはもう警察官でした。あの日は非番で実家に帰って来てたんです。そんなことも知らない俺は、家に二人っきりだと思ってて……だから——」
「藤永さんにその時何か言われたのか」
「いえ、その時は何も……。ただ俺を見る目が怖かった。煮えたぎるような怒りが籠もった眼で、俺をドアの隙間から見てました」
「その時は——ってことは、その後で何かあったのか？」

　八束に確信をつかれ、千乃は両手のこぶしで口を覆うとそこへ顔を埋めた。
「真希人さんに睨まれて、俺は親友になんてことをしたんだと自分を許せなかった。真希人さんが怒るのももっともで……。その証拠にそれ以来、真希人さんは俺と口をきいてくれなくなりました」

　口にして、改めて自覚した。自分は藤永によく思われていないことを。
　大学で再会した時の微笑みは、きっと社交辞令かなにかだったのかもしれない。

「千乃……平気か。辛いなら無理に話さなくても——」
　八束の気遣いが嬉しかったが、千乃は誰かに——自分の過去を知る八束に聞いてもらいたかった。悪いなと思いながらも、背負っている荷物のほんの一部を引き受けて欲しかったからかもしれない。
　千乃は、平気ですと言って、続きを口にした。

「八束さん……天罰ってあるんですね」
「天罰？」
「はい。俺は眞秀にしたことが後めたくて、眞秀の目を見れなくなってあいつを避けてました。そんな時、バイトの帰りに俺……レイプ……されたんです。相手は三人いました……」
　くぐもった声で千乃は告白した。
　今まで誰にも言えなかった事を……。

「な、そ、それ……、そんなこと……千乃、お前——」
　努めて自若(じじゃく)を装おうとする千乃は、その場に立ち上がった八束を見上げた。
　八束の顔は悲しげで、でもどこか憐むようにも見える。かける言葉を選んでいる八束から目を逸らし、千乃は俯いたまま言葉を綴っていった。

「三人の男達が笑いながら言ってたんです、これは罰だと」
「罰？　どう言うことだ、そいつらは誰だったんだ！」
　声を荒げ過去を揺さぶってくる八束に、千乃は苦笑いしながら首を左右に振ると、頼りなげな手で心配する手を制止した。

「一度、その三人が真希人さんと一緒にいるのを見たことがあるんです。……男達も真希人さんの友達だと言ってましたから。ダチの弟に手を出すから、こんな目に合うんだと犯され……ながら言われました。その時俺は、ドアの隙間から睨む真希人さんを思い出したんです。だから『罰』と言う意味も理解出来た……」

「あ、あの藤永さんがそいつらを教唆(きょうさ)したのか、警察官なのに！」
　やり場のない怒りをこぶしに込め、テーブルを叩きつける八束を見つめながら、千乃は怒りを鎮めるよう、その手の上に自分の手をそっと重ねた。

「俺が……悪いんです。俺が先に眞秀へ手を出したから」
「そ……それは、それと千乃が受けた傷とは比べものにならないだろ！　それに警官が犯罪に加担してたなんて、懲戒免職もんだ！」
「八束さん……証拠はないんです」
「お前……訴えなかったのか……」
　悲愴な面持ちの八束に、ゆっくりと首を縦に振った。
　好きな相手への気持ちも、そこから生まれた悲しい仕打ちも、全て自分が撒いた種だと言い聞かせ生きて来た。それが誰も傷付けないと思ったから。

「これは報いだと思って、三人の男達が満足するまで受け入れようとしました。でも最中に死ねと言われ、首を締められたんです。きっと、暴れる俺をどうにかしようと……。俺、怖くて、恐ろしくて……苦し……かったんです」
「千乃……お前、おふくろさんにされたこと、思い出したんじゃないのか……」

　八束の質問に、千乃は返事ができない。
　声に出すことも、態度で示すことも。
「あの刑事がお前をダチに襲わせたのか」
　怒りで震える声で八束に問われ、千乃は「分からない」と、首を振った。
　言葉にするだけで、こんなにも簡単に過去へと引き戻される。全てを受け入れ、心を騙して生きてきても、罪悪感までは消えないのだ。

　幼い頃、悲しんでいた母を救いたくて、優しく励ましたりしても、一向に元気にはならなかった。その結果、母はとうとう生きることを諦めて命を絶った。それが自分のせいで罪なんだと、千乃はずっと思い込んできた。
　いつだって自分は禍(わざわい)で、周りの人間を不幸にするのだと。

「真希人さんが指示したか……それはもういいんです。悪いのは俺なんですから」
「何を言っている！　千乃は悪くないっ。お前は被害者なんだぞ」
　八束の言葉は、千乃の体を吹き抜けていく。
　母や弟を失ったこと、虐待を受けた日々。強姦されたことも、罪悪感を背負って生きて来た千乃には届かない。

「襲われてる時に思い出したんだ、家族三人で過ごした最後の日のことを」
「最後の日って——」
「八束さんに初めて会った日、一度目に助けてもらった日です。あの日はクリスマスイヴだった。八束さん覚えてます？」
　泣きそうになりながら千乃は、すっかり冷めてしまった珈琲を一口飲み、徐にソファから腰を上げた。珈琲を淹れ直しますね、と。

「……ああ、覚えてるよ」
　受付の奥にある休憩室。扉を開けていれば八束の声も姿も見える。けれど、いつもの張りのある声ではなく、どこか腫れ物に触れるように話す姿が、小さな頃に見た白衣姿と重なって見えた。

「俺、まだ小さかったからよく覚えてないけど、ウキウキしていた感覚は覚えてて。クリスマスはいつも母さんがホットケーキにデコレーションしてくれるから。でもあの日は……違ったんです……」
　フィルターからぽたりぽたりと落ちてくる珈琲を見つめながら、千乃は話を続けた。

「家の近くにある川に連れて行かれ、寒いから帰りたいと言っても母さんは俺の声が聞こえてないみたいに、どんどん歩いて……俺と葉月の手を引っ張って川に入っていった。まだ小さい葉月はあっという間にみえなくなって、泣きながら母さんは俺の首を絞めてた。ごめんねって何度も謝り……ながら。意識が薄れる中で、すぐ横に葉月が沈んで行くのが見えたんです……。俺は必死で葉月の手を掴もうとした。けど届かなくて、あいつは川底に沈んでいったんです。俺だけが生き残って……二人を救えなかった」
　千乃は小さな息を吐くと、空になったカップへと二杯目の珈琲を注いだ。

「それを全部、お前は自分のせいだって思ってるのか。そう思ってるならそれは違うぞ、絶対に」
「でも、俺だけ生きてる。母さんや葉月を助けられたかもしれないのに」
「あのな……千乃が心肺停止で運ばれて来た時、一緒に川の中から引き上げられたお母さんと弟さんはもう息をしてなかった。お前だけがかろうじて息を吹き返したんだ。お前もヤバかったんだぞ」

　禍の元凶は自分だけが生き残ってしまったこと。千乃は自分の首に手を差し伸ばし、八束を凝視した。
「首を……こうやって絞められながら、体がどんどん冷えていった。意識があったのはそこまでで。母さんのごめんねって言う声だけが耳に残って。哀しげな顔が消えないんですよ、ずっと」
「お前の首には扼頸の痕があった。川に沈められたのは気を失ってからだったのかも知れない……だから助かったんだ——」

「でも、でも俺は母さんが毎日苦しそうにしてるのを知っていた。なのに、何も出来なかった。だからこれは罰なんです。襲われた事も……眞秀を好きになって、親友にあんなんことしておいて、まだ俺はあいつを必要としている。弱い俺が悪いから。だから……全部、全部、俺は納得してるんです」

「だから藤永さんのダチに襲われても、お前は訴えもせず、弟に手を出した罪だと甘んじて受け入れたって言うのか！　そんなバカな話しあってたまるかっ」
　両手で頭を掴み、俯いたまま千乃は床に向かって吐き出した。声に出した罪が跳ね返って自分へと攻撃させてくるように。

「眞秀の家は俺と同じ母子家庭だったんです。だから兄さんが父親代わりだって、眞秀はよく言ってました。真希人さんも弟のことを可愛がってた。俺にもその気持ちはよく分かるから……」
「だからってやっていい事と悪いことがある。あの人はそれを一番やっちゃいけない人間なんだ！　それに——」
「八束……さん」
「それに、お前はずっと、ずっと、酷い目に遭ってたんだ、覚えてるだろう……」

　怒りの炎を鎮火させようとする八束の目が固く閉じられると、千乃は再び自分に言い聞かせた。自分の存在が罪なのだ、だから仁杉の妻も、千乃のせいだと言っていたのだ。

　──お前が生まれたせいで、私は不幸になった……と。

「……二回も救急に運ばれる人間なんて滅多にいないですよね。あの時は八束さんに迷惑かけちゃいました——」
「迷惑なんて言うな！　そんな張り付けたような顔で笑うた。お前はもっと大人を恨んだっていいんだ。それに俺のことも……」
　そう呟いた声と同時にスマホが鳴り響き、八束が口にしようとした懺悔の言葉がかき消されてしまった。

「電話鳴ってますよ、八束さんのスマホですよね。はい、これ」
　千乃は側に置いてあったトートバックを八束に差し出すと、中から囁くスマホを取り出し、來田君からだったよと、教えてくれた。

「——もしもし、お疲れさん。あ、ああ来たよ刑事さん。そっちに連絡は——そっか、こっちは大丈夫。うん、分かった。また明後日な、お疲れさん……」

「八束さん、來田さんは何て？」
「店に出勤してるか、伏見さんが確認して来たらしいよ」
「俺達が庇ってないか確認したんですね……」
「本当、刑事ってのは難儀な仕事だな。俺なら人間不信になるよ」
　テーブルの上にあった瓶に手を伸ばす八束が、客用に置いてある飴を取り出し、口の中でゴリゴリと噛み砕いている。千乃は脇に避けてあった灰皿を差し出すと「吸ってもいいですよ」と微笑んで言った。

「いいんだ、平気だから」
「でも結構長い時間吸ってませんよ」
「大丈夫さ。口に何か入れときゃ誤魔化せる」」
　千乃の側では極力煙草を口にしない。そんなルールは一緒に働きだしてから、ずっと守り続けている八束の密かな気遣いだった。
　白く柔らかい大腿部の内側に、煙草からの熱源で作られた熱傷。
　皮膚がヨレ、白っぽく盛り上がった痕が、そこにはいくつも残っていた。
　虐待の名残りを持つ千乃は、主治医だった頃それを八束に知られている。だから彼は隠れて煙草を吸ってくれているのだろう。

「あ、もうすぐ終電なくなる。やばっ」
　壁の時計を見上げ、千乃は慌てて身支度をしだした。
「ここは片しとくから千乃は先に帰れ」
「すいません、コップとかも——」
「いいよ、俺はこっから近いんだ、それくらいやっとくから。明日寝坊して留年にでもなって、お前の大事な内定が取り消しになると困るしな」
「ハハ。平気ですよ、今んとこ皆勤ですから」

　リュックを背負いながら、千乃は自慢げに笑って見せる。そうする事で、大抵の大人は深入りして来ないのを子どもの頃から学んできた。いつの間にか癖になってしまうくらいに。

「相変わらず真面目だな」
「でしょ？　それじゃ……。お先です。お疲れ様でした」
　お決まりの挨拶をしながら、ドアを出て行こうとした千乃はふと足を止め、八束の方へ振り返った。
「どうした、忘れもんか」
　ポケットに忍ばせてあった、パーラメントの箱を取り出そうとして、思わずその手を引っ込めている。取り繕うような笑顔の八束に、千乃は吹き出しそうになった。

「……いえ、今日は遅くまで付き合わせてすいませんでした」
　礼を言い、会釈した千乃は再びドアに手をかけながら「やっぱ平気じゃなかったですね」と、悪戯げに微笑むと、真鍮の軽やかな音を聞きながら店の外へ向かった。