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 千乃は大学の中庭で昼食のパンをかじりながら、眞秀に借りていた本を読んでいた。  キャンパスの中で感じる小さな冬萌えと、教室から聴こえる小洒落たサックスの音色が心地いい。  静かで穏やかな時間を味わうのは、警察が縷紅草に来て以来、久しぶりだった。  突然降りかかった來田への容疑に常連客の死。刑事ドラマのような一コマが、一辺倒だった平凡な生活に暗雲が立ち込めた。  連続殺人や容疑者などと言った言葉は、テレビや映画の中だけの話しだと思っていた。   初めて知る殺伐とした環境に動揺し、眞秀との約束が反故になってしまったのは、千乃にとってかなりのダメージだった。 「あいつ何してるのかな」  しおりを挟んで表紙を閉じ、クラフト紙で作られたお手製のブックカバーを指先で辿ってみる。たかが本一冊でも眞秀と繋がっているように思え、千乃はそれだけで安心を得ることが出来るのだ。  樹々から零れ落ちるひだまりを見上げ、目を閉じてみる。  頬にはまだ冷たい冬の風でも、今日はどこか優しい。初春(はつはる)を迎えるように、このまま穏やかな日常を重ねていければと、千乃はせり上がってくる不安に蓋をした。  不意に風の流れが遮られたように感じ、開眼すると目の前に立っていた人物に千乃は瞠目した。 「ま……きと……さん」 「……元気か」  黒のチェスターコートに身を包み、日差しを肩で受け止め、颯爽と佇む藤永が柔和な表情で千乃を見下ろしていた。しかし、その顔は一変して無表情になり、冷めた目つきで千乃を見つめている。 「どう……してここへ」 「……ちょっと事件のことでね」  藤永の言葉で以前、幡仲のもとへかかって来た電話を思い出した。そしてその後に、藤永と数年ぶりに再会したことも。  目の前にいる藤永から視線を逸らすことが出来ず、千乃は暗示をかけられたようにその姿を見上げていた。  大学で会った時、來田を迎えに警察署へ行った時、縷紅草へき来た時も藤永と会話らしいことはしていない。話したいと思う反面、安堵もしていた。にもかかわらず、またこうやって再会してしまった。    高校の時、最後に見た藤永の顔と、再会した時に見せてくれた微笑み。藤永の友人たちの(いびつ)に笑う声と口元。それら小さな欠片が組み合わさって機能し、万華鏡のようにくるくると千乃の思考を惑わせてくる。    目を合わすと全身を強張らせるくせに、また微笑んでくれないかなと欲をかいてしまう。五年前と同じように……。  千乃が藤永と出会ったのは、高校生だった頃、眞秀の家を訪れた時だった。  八歳年上の彼は才色兼備の優しい大人で、彼を兄として持つ眞秀を羨ましく思っていた。  家族のいない千乃が初めて知った、憧れと言う気持ちを慎ましく心に留めてきた。  眞秀に口付けをするまでは……。    今、改めて見る藤永はやっぱり聡明で、昔よりもずっと千乃の目を(くら)ませる。けれども身体が勝手に萎縮してしまうのは、大切な弟に近づくことを許さないと言う私怨が、彼から滲み出てるように感じるからだ。 「——それ、眞秀の本か。まだあいつと連んでるんだな」 「あ、これは——。す、す……いま……せん」  静かな口調に、冷たさを帯びたような声で『浅ましい奴』と二重音声に聞こえてくる。  藤永の言葉に千乃はいたたまれない気持ちになり、思わず視線を地面に預けてしまった。その瞬間、目の前の日差しを隠していた背中が動くと、緩やかな風が吹き上がり千乃の前髪が揺れた。  顔を上げる勇気のない眸は、自分の前に屈んでいるスーツの足に釘付けになっている。 「——千乃、お前まだ……」  甘く囁く声と共に大きな手が伸び、千乃の頭に置かれた。  ──何……手——?  手のひらから伝わる温かさが頭部を伝い、胸の中にじわりと染み込んでくる。けれどすぐそれは錯覚だと本能が判断し、千乃はその手を思わず払い除けてしまった。 「あ……、すいま……せん。俺——」 「お前は謝ってばかりだな、昔も今も……」  影を帯びた藤永に言われ、千乃は初めて見る沈鬱な面持ちに戸惑ってしまった。  過ちを犯したあの日を境に、親友の優しい兄はまるで千乃を憎むような目で見るようになった。たった一度、自分の欲望を晒したせいで……。  屈んだまま、千乃の顔を見上げてくる藤永の感情が読めず、千乃はかける言葉も、この場を回避することも出来ず、ただ手のひらにじっとりと汗をかいていた。  囁くような風が髪を撫で、耳元で微かな春を匂わせている。優しく頬に触れられたような、胸の辺りがほわっと暖かくなったような……。  穏やかな空気に誘われて、顔を上げかけた時、「千乃」と、藤永に名前を呼ばれた。 「……今夜はバイトあるのか」  風に乗って聞こえた声に、千乃は驚き、次に質問の意図を考えた。  馬鹿みたいにポカっと口を空けたまま、対応できずに秀麗な顔をジッとみていた。 「聞いてるか、千乃」  声と同時に肩に手を置かれ、千乃はようやく藤永の顔を見た。 「あ、は……はい。えと、今日はバイト……あります」 「そうか……。じゃお前の連絡先教えろ」 「えっ! れ、連絡先って——」 「なんだ、嫌なのか」 「いえっ! 嫌とかではなく……」  予想外の藤永からの申し出に思考が追いつかず、千乃はただただ、泡を食っていた。なぜなら、そこには鋭く光る眼光はなく、久しぶりに見る凪いだ眼差しがあったからだ。 「ならいいな。ほら、スマホ出せ」  半ば命令のように手で催促する藤永に従い、千乃は慌ててスマホを差し出すと、それを素早く藤永に奪われてしまった。  手際よく操作する端正な顔を訝しげに眺めていると、僅かの間でスマホは千乃の手に戻ってきた。 「あの……まき……とさ——」 「また連絡する。飯でも食おう。じゃ俺は仕事に戻るから」 「えっ! メシ?」  何度も確かめたくなるような誘い文句を言い残しただけで、駐車場の方へ消えて行く藤永を千乃は茫然と見ていた。 「どう言う……事なんだ……。真希人さんは何を考えて——」  湧き上がる興奮を言葉に変えたものの、千乃はそれを否定出来てしまう叙情を思い出し、胸ぐらを強く握り締めた。  ──そうだった……真希人さんは俺をまだ憎んでいるはず……。  三人の男達に代わる代わる慰み者にされた恐怖が、叫び声と共に蘇る。  押さえつけられた肢体に走る痛みと、蛇蝎が這うよう耳に注がれた言葉。それら全部、藤永が望んだ復讐なのだから。 「きっとまだ足りないんだ……。もう眞秀のことをそんな風に見てもないのに。ただの親友でいることすら、あの人は許してくれない……」  サックスの弾んだ音色は、いつしか物悲しいジャズの曲へと変わり、千乃の心情を代弁するよう中庭に響いてきた。  あまりにも切なく聞こえ、涙が頬を滑り落ちていく。  しとどに流れる雫の生まれる場所を前髪で隠し、千乃は体を折り曲げてむせび泣いた。  差し伸べてくれる手など自分にはないのだと。
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