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ヒエラルキーの頂点に君臨するのだと、あの女に捨てられた時に誓った。
今まさに、その通りに人生を生きている。
その証拠に、柊の目の前には札束が積まれていた。
「いやー、半年! 半年だよ、待ったねー。いや、本当、待ち焦がれていたよ」
「雲類鷲様、本当ーにお待たせして申し訳なかったです。ですが、由元先生もお忙しくて。だからと言って手を抜いた作品になることもなく、ご注文通りのものがこうして仕上がったんです。ご満足頂けてると、当方は自負しておりますよ」
さも自分が骨を折ったのだと言わんばかりに、アートディーラー の山脇が鼻の穴を膨らませて自慢げに語っている。
大金を稼ぐ事しか頭にない屑みたいな人間に、柊は腹の中で嘲笑していた。
「由元先生の絵はコレクターの中でも大人気だからね。油彩画の影響で厚く塗り重ねた抽象的描画のように、伝統的な技法に囚われないタイプもいいんだが、私は水干絵具と胡粉で描かく、先生の艶かしい人間に堪らなく惹かれてしまうんだよ」
テーブルの上に乗った、金縁の額に収まった大和和紙に描かれた人物画を指で辿りながら、雲類鷲は絵に恋でもしているかのように、恍惚とした表情を浮かべていた。
「そんな風に仰って頂いて光栄ですよ。しかもお値段を上乗せして頂いて、本当ーに感謝いたします」
「いやいや、それは当然のことだ。寄付も兼ねてるんだからね」
髪よりも頭皮の面積が大半の頭をかきながら、雲類鷲がソファの背もたれにふんぞり返り、ぎりぎり交差できる長さの足を組んでいる。
何度見ても、赤ん坊を型どった、おきあがりこぼしのような体型だなと眺めたいた。
「ありがとうございます。これからも精進します」
「期待してるよ。それとな、先生。ちと噂で聞いたんだが、先生はコレクターからの依頼以外に、プライベートでも絵を描かれてるとか——。それを拝見させて貰いたいんだがね」
今にも舌舐めずりしそうな顔で語る雲類鷲を前に、柊のこめかみがひくつく。そのまま隣に座る山脇を一瞥すると、小心者は慌てて目を逸らした。
彼の態度に口腔内で舌打ちした柊は、肩で溜息を吐くとわざと口角を上げ、成金相手に笑顔を披露した。
「確かに描いてますよ。でも、ただの落書きですけどね。デッサンも兼ねてるんで」
「そう、それ! 落書きってのがレアだよね。ぜひそれも——」
「あ! 申し訳ありません。この後約束が入ってたの忘れてました」
雲類鷲が次に放つ言葉を牽制するよう、柊は勢いよく立ち上がり、丸い地肌が見える頭頂部を見下ろした。
「あ、ああそうか。それならまた今度話そう」
自分を納得させるように何度も頷くと、雲類鷲は富裕層特有のゆとりを見せつけ、コートを手にして立ち上がった。
「お送りします! 雲類鷲様。それじゃあ先生、私もこのまま、お暇させていただきます。またご連絡いたしますので」
慌ててカバンを抱え、おきあがりこぼしが、左右に体を揺すりながら帰って行った。媚びへつらう小判鮫は下僕の如く、そそくさと後をついて行くとそのまま二人は帰って行った。
これまで何度も見てきた、馬鹿げた光景に辟易する柊は、荒々しくソファに身を置くと、足を投げ出して天井を仰ぎながら手のひらをダウンライトへと伸ばしてみる。
光りと手が重なるのを視界に捉えると、重力のまま胸の上にぽたっと腕を落下させた。
心臓の上に乗っかった手は胸ぐらを掴み、こぶしに変化させると、柊は自身の胸を何度も叩いた。
何枚描いても埋まらない、虚無感に苛立つ。満足しているが物足りない。
描き上げてはこれじゃないと思うのに、描きたい理想の姿が輪郭すら現れない。
柊の描く人物は、恐怖や快楽に悶え苦しむ表情が多かった。母と言う女に復習するかのよう、憎しみの色を描き連ねていく。
そうして仕上がった絵は、観るものの心に潜む、汚いモノが曝け出されるような、生き血を紙に吸わせたような絵になるのだ。
男に寄生しないと生きていけない生き物、柊の母親はそんな女だった。
自分の腹を痛めて産んだ命ですら、目障りな存在だと邪険に扱い、柊は彼女から愛情や優しさなど与えて貰った記憶はなかった。
愛なんてものは、メディアが作り出す紛いものなんだと、自分に言い聞かせ生きて来た。
柊が物心付いた頃、その女は二人だけの質素な生活に痺れを切らし、養護施設という名の廃棄場所へと幼い柊を捨て去った。
働いて金を稼ぎ、きっと迎えに来るからと言う甘い嘘で誤魔化して。
見た目だけが自慢だった女は、運よく知り合った金持ちに見初められると、まるで子どもなど最初からいなかったように、面会にも来ず、立派な家の妻と言う地位に収まったと職員の噂話しで知った。
噂など信じず、慎ましく暮らしていればきっと迎えに来てくれる。母の言葉に縋る子どもを、沼の底に沈めたのは、偽善者ヅラした職員達だった。
バカな子。自分の幸せに邪魔な子どもを、迎えにくるはずないのにと、無責任な大人達が話しているのを聞いた。
母を忘れようと、虚無の生活に陥っている柊の心を踊らせたのは、絵を描く事だけだった。
絵の世界を教えてくれたのは、施設と学校の間に家を構える、一人暮らしの大学生のような見た目の男だった。
小学生の時、柊は学校からの帰り道で男に呼び止められた。
面白いモノがあるからと、柊を手招きし、家に誘おうとしてくる。
何日も何回も繰り返し声をかけてくるから、好奇心から一度だけと彼の家に上がり込んだ。
男は親切に色々教えてくれたが、その中でも絵を描くことが柊にとっては一番興味深かった。
笑顔で嘘を吐く大人といるより、男のいえにいて、おやつを食べ、好きな絵を描ける環境の方が居心地がよくて、その日を境に頻繁に訪れるようになった。
中学一年の夏。部活動で疲弊しても、絵を描くことに心を弾また柊は、いつものように男の家を尋ねた。
玄関で出迎えてくれる優しい笑顔に安堵すると、不意に肩を力強く手で掴まれ、柊はカビの匂いが充満する薄暗い部屋に押し込められた。
引きずり込まれた場所には灯りも差さず、ダンボールやゴミが隅っこに転がっていた。
訳もわからず、辺りを見渡していると、背中をドンっと押された。
倒れた場所は、乾いた地面の上に敷いてあるむしろの上で、起き上がろうとした柊の上に見慣れた顔が重くのしかかってくる。
自分の上にいる男が別人のように息を荒げ、頬をベロリと舐められた。
柊が怯んでいると制服を引き裂かれ、開襟シャツが破れて露わになった未成熟の肌に、ざらついた舌がまた襲う。
拙い力で精一杯抵抗するも、押さえ付けられた力の差は大きく、叫ぼうとする口は、優しく頭を撫でてくれていた手で塞がれてしまった。
恐怖で怯える身体に異臭を放つ唾液が纏い、身体中に悪寒が走る。
ズボンを下着ごと剥ぎ取られると、成熟しきってない柊自身を鷲掴みされ、そこを激しくシゴかれ、あっという間に達してしまった。
柊の小さくて狭い蕾に体から出た白濁を塗り込まれ、熱い楔を打ち込まれた。
男の片方の手は柊の細い首を絞め、何度も肌を打ち付けてきた。
男にされた行為は何の快楽も持たず、ただただ痛みと苦しみだけが柊を襲った。
生臭い息と滴る汗。重圧する畏怖の下で聞いたひぐらしの声を耳にした時、男の顔は元の柔和な表情に戻ると、柊の耳元で囁いてきた。——絵を描き続けたければ、また来るように——と。
男の家に行かなければ済む話だ。けれど絵を描きたい気持ちが柊の中で渾々と沸き溢れていた。
柊にとってたった一つの生きる意味。それを奪われないためには、地獄を味わうしか手立てはなかった。
施設ではとうてい買ってもらえない、高級な画材道具。それと引き換えに柊は、男に体を差し出した。
生き抜くために。生きて母親や、自分の体を貪る男へ復讐するために、柊は地獄で生きることを選んだ。
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