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 緊張からくる尋常じゃない手汗を何度も拭い、千乃は指定されたカフェで注文した珈琲を一口含んだ。  心なしか震えている指先は、冬の寒さが原因ではないことは分かっている。  この場から逃げて帰りたい衝動に駆られていると、窓から見える景色の中、道行く群衆の中に頭一つ突き出た人物を見つけ、千乃の心拍数はさらに加速を増していった。  ──真希人さん、本当に来た……。    視線に気付かない真希人が店のドアを開け入るのを一瞥した後、千乃は咄嗟に気付いてない風を装装って窓の外を眺めた。  数年ぶりの再会を経て今日を迎え、どう対応していいかわからなかったからだ。  笑顔を見せた方がいいのか、それともまず謝るべきなのか——。正解が見つからないまま、次第に近く革靴の音に心臓が破裂しそうなほど脈打っている。 「千乃、待ったか」 「は、はいっ!」  かけられた言葉に反応し、返事と同時に直立すると、突然自発呼吸が不規則になり、揃えた足が覚束なく、よろめきそうになった。 「あぶなっ」  膝から崩れ落ちそうな体を、既のところで藤永に受け止められ、千乃は腕の先にある顔を思わず見上げた。  抱き留められたコートの襟元から薫る懐かしい匂い。見下ろす切長の目に映り込む情けない顔に、千乃は羞恥で顔を逸らすことしか出来なかった。 「す、すいませ……ん」 「大丈夫か。お前貧血持ちだったっけ」 「いえ、ちょっとよろけた……だけです。すいません」  手助けしようとした藤永の手を、そっと押しやった。  初めて会った頃に知った優しさと、その後に受けた冷酷な視線が混ざり、苦しくて叫び出しそうになっていた。 「……ならいいんだ。それに千乃は謝り過ぎだ。前にも言ったろ。口を開けば、すいませんばかりだ」 「すいませ——あっ」 「言った側からか」  微笑みながら大きな手で頭を撫でてくる。 本人からすれば大したことない仕草でも、千乃にとって藤永が見せる一挙手一投足は固唾を呑んでしまう行動なのだ。  この後どんな言葉が藤永の口から発せられるのか、千乃の胸は不安で飽和状態になっていた。 「あ、あの真希人さん今日は——」 「腹減らないか。魚が美味い店があるんだ、千乃は酒飲めるんだろ」 「え、あ、は……い。で、でも何で俺と……」 「……まあ、それは後で。食いながら話すよ」  千乃が飲んでいたカップをダストボックスに捨てながら藤永に肩を掴まれ、押し出されるように店の外へと連れ出されてしまった。  当惑する身体は、逆らうことも拒むこともできず、タイミングよくやって来たタクシーへと押し込まれた。  車内で寡黙になる藤永に、行き先を尋ねる勇気も持てないまま、沈黙の時間を過ごすと、タクシーは静かに停止した。  藤永の手に促されるまま、千乃は通りにある半地下への階段を降りると、洒落た小料理店の暖簾をくぐるよう(いざな)われた。  足を踏み入れた場所は、明るく清潔感溢れる店内で、立ち竦んでいると、お多福のような笑顔の女将が二人を出迎えてくれた。 「あら、真希さん久しぶり。お元気でした?」 「こんばんは、女将。まぁまぁかな。女将たちは元気そうだね」 「そりゃね。元気が取り柄ですから。今日はお二人で?」 「ああ。奥の個室空いてるかな」 「ええ空いてますよ。どうぞ、ご案内します」 「ありがとう。千乃、行こうか」  カウンターとテーブル席が並ぶ間を抜け、千乃は前を歩く藤永の背中を追った。  後ろ姿を見つめながら、千乃は仕事の場面以外で見せる藤永の顔を反芻していた。  女将と話す柔和な顔は、高校の時に千乃が憧憬を抱いた人だ。  あの頃に見た表情の藤永を見て、それが自分に向けられていたならなと、贅沢なことを考えてしまった。  古びた廊下を軋ませると桜が描かれた襖が現れ、開け放った途端、ふわりと、い草の香りが流れ出てきた。 「いい匂い……」  思わず口にし、千乃はハッとしてその唇を手で覆った。  ──俺は何、呑気なことを……。  何のために連れて来られたのか意図も分からないのに、勝手に浮かれている自分はなんてバカなんだろうと自省した。 「ビールでいいか。後、苦手なもんなかったか」 「はい……。何でも食べれます」  テーブルを挟み、向かい合わせに腰を下ろすと、千乃の緊張は極限に達していた。 「何でそんな緊張する。別にとって食おうなんて思ってないよ」 「は、はい……」  茶化して話す藤永の表情を目にし、ほんの少し安堵できたが、絶対君主に臆している千乃はテーブルの木目ばかり見ていた。 「失礼します」  障子の向こうから女将が声をかけ、藤永はビールと料理を注文した。その間、正座したままの千乃は、足を崩すよう言われても姿勢を変えることが出来ず、石膏のように固まり、頭の中は謝罪の言葉が渦巻いていた。  大学生になっても懲りずに眞秀へ付き纏っている、ろくでもないやつと思われているのもしれない。  汚い手で眞秀の私物を当然のように手にする、図々しいやつだと呆れられているのかもしれない。  口で言ってもわからないやつは、また──何かしらの制裁を与えられるのかも……しれない。  今日、二度と眞秀に会うなと言われたら、千乃は黙って頷くしかない。眞秀に迷惑をかけたくないし、なにより、藤永に今よりもっと蔑まれるのは嫌だと思った。  そうなる前に彼らの前から、消えなければ……。  ビールや料理が運ばれら中で、千乃はそんなことばかりを考えていて、藤永のグラスにお酌をするのを気付くのが遅れ、慌ててビールを注いだ。  手が震えるから、ビンとグラスが当たってカチカチと音を立てる。 「……千乃はそんなに俺が恐いのか」  静かな声で問われ、千乃の手が止まった。  ──恐い……。  改めて聞かれると、別の単語がよぎった。   恐くはない……。これは罪責感から生まれた震えだ。  尊敬する人に不快な思いをさせ、自分が蒔いた種なのに合わす顔も持てず、月日と共に罪を色濃くした結果、謝罪できていないことに怯えているだけだ。 「こ……わくはないです。ただ——」 「ただ?」 「ご、ごめんなさいっ」  藤永の言葉を言下に、千乃は座布団から降り、額を畳に擦り付けていた。 「——何の真似だ」  低く冷たい声が頭の上に降り注ぐ。その声に怖気づき、千乃は顔をあげることが出来ず身を縮こませた。 「お、俺がいつまでも眞秀の側にまとわりつくから……。だから真希人さんに不快な思いにさせてしまって——。本当にすいませ——」 「失礼します、お料理お待たせしまし——」  廊下から声をかけられ、障子を少し開けた女将が、二人の様子を見ても、何事もなかったように料理が乗った盆を畳の上置くと、静かに襖を閉めて去って行った。 「顔を上げろ、千乃」  藤永の言葉が刃のように感じ、千乃は両手と額を畳に擦り付けたまま、何度も頭を横に振った。 「お……俺が眞秀の側にいるから……。だから真希人さんは——」 「お前は……そうまでしてあいつの側にいたいのか。眞秀のことが今でも……好きなのか……」  畳にめり込むほど頭を下げ続け、言葉の代わりに首を左右に振り続けていた。 「……好きじゃないのか」 「……うぅ……おれ……は」  発したい言葉はあるのに、声が詰まる。自然と湧き出る涙が畳にシミを作り、千乃は畳に突っ伏したままでいた。するとテーブルの反対側から藤永が立ち上がり、千乃の側に近づいたかと思うと、膝を折り曲げ、大きな手が震える肩にそっと触れてきた。 「聞こえなかった。千乃、もう一度言ってくれ」  さっきまでの声とは別人のように優しく囁かれ、肩から伝わる手の温もりが強張った体を弛緩させてくれた。 「お……れ、もう……眞秀のことをそんな風に思って……ないです。信じてもらえないかもしれない……けど、大切な親友なんです」  嗚咽の混じる声で精一杯思っていることを口にした。  今思えば、眞秀を好きだと思った気持ちは、孤独だった千乃に唯一優しく構ってくれた人間だったからかもしれない。  上手く伝わらなかった告白も、あの時はがっかりもしたが、吐き出してスッキリした気持ちの方が大きかった気がする。  離れて過ごす中で、淡い恋心だったんだと自覚した気がする。  ——それに……眞秀に振られた時よりも、真希人さんが口を聞いてくれなくなった方が悲しかった……。 「親友……か」 「……俺は、嬉しかったんだと……思います。眞秀が俺なんかにかまってくれることが。それを恋だと思いました。でも……大学で離れて物理的にできた距離が、いつの間にか友情に変えてくれました。眞秀はいつも、俺の寂しさを埋めてくれる、大切な存在なんです、今も昔も……」  噛み締めた唇の隙間から漏れる啼泣(ていきゅう)を堪え、千乃は喉の奥で躊躇う言葉を必死で伝えようとしていた。 「……分かった。もう泣くな。俺の方こそお前に謝らないといけない。いや、謝っても済む問題じゃない。俺はお前を責める資格なんてない人間だからな」  肩に置かれていた手はいつの間にか千乃の頭部に移動し、その指は労るように髪を撫でていた。 「……真希……人さ……ん?」  藤永の言葉の意味が分からず、千乃は問いかけるように顔を上げた。  視線の先には、悲愴な表情で千乃を見ている藤永がいた。  眸に涙をためたまま見つめていると、徐に長い足を折り曲げ、今度は藤永が千乃の前に平伏してきた。 「申し訳ない。謝ってもお前は許さない——いや、許さなくてもいいんだ」 「ちょ、ちょっと待って下さい! 真希人さん何してるんですかっ、やめてください! あなたがこんなことする理由なんて——」  何とか顔を上げてもらおうと、千乃は項垂れる肩を起こそうと掴んだ。  きちんと整えられた前髪が額にかかり、藤永が顔を上げると、見たことのない悲しげな顔の男がそこにいた。 「理由はある。ずっと……ずっとお前に謝りたかった。なのに俺は、仕事が忙しいことを言い訳に逃げていたんだ。お前に合わす顔がなくて……」 「何……言ってるんです。謝るのは俺の方で——」 「違う! 俺は、お前に酷いことした。俺は最低の人間だっ。俺がお前を……」  顔を手で覆って苦悩する藤永を目にし、千乃は『報い』だと、耳元で呟いてきた男達のことを浮かべた。 「真希人さん……『あのこと』のことを言ってるんだったら、あれは俺が悪いんです。眞秀を汚してしまった俺が……」 「お前は悪くない! 俺はあんなことになるとは思わなかったんだ。あいつらがお前にあんな……ことを……するなんて」  藤永の声が泣きそうに聞こえ、千乃は涙で濡れている手に自分の手を重ねた。 「真希人さんが怒るのも仕方ない……です。俺が眞秀を裏切ったんです。だから真希人さんがしたことは必然だと……理解して……ます」 「……そんな風に思わないでくれ。俺はただ、腹が立ったんだ。眞秀はお前を親友だと思っている。なのに、あいつを裏切っているように思えたんだ」 「……ですよ……ね、あんな——」 「いや、そうじゃない。俺はそんなことを言いたいんじゃなくて、千乃は悪くないんだ。俺はあいつらが本気でお前に手を出すなんて思わなかった」 「どういうことですか?」  千乃が聞き返しても、藤永の唇は弾く結んだままだった。言葉を言い淀んでいるように見える。 「真希人……さん?」  重ねていた手に力を込め、名前を呼んでみた。 「……あれは久しぶりに会った、飲みの席でのたわいもない雑談で済む話しだったんだ。酔った勢いで俺はあいつらに意見を求めた。弟が、その……ゲイの友人に手を出されたと……。あいつらはお前に制裁を与えろと言っていた、友情を裏切った罰だと。この話は飲み会で終わるはずだった。けど、お前と眞秀が一緒にいる時、あいつらと出会(でくわ)したよな? その後、あいつらはお前が問題のだと知った。それで……あんなこと……を。お前にあんな酷いことを……許されるわけない。俺は警察官なのにっ」  体裁も気にせず涙する藤永を目にし、千乃は意表を突かれた。  いつも凛とし、自信に満ち溢れて聡明な藤永が嗚咽を漏らしている。  初めて見る藤永の姿に、胸の底に熱く畝る感情を湧き上がらせた千乃は、涙を拭うと謝罪し続ける身体に寄り添った。 「……真希人さん、顔を上げてください」  藤永の背中に回した手を労るよう、千乃は繰り返し撫で続けた。 「お前は俺を訴えてもいいんだ。今でも遅くない、俺を——」 「しませんよ、そんなこと。当たり前じゃないですか」    戸惑う気持ちが優先しながらも、揺蕩うように湧き上がる温もりを千乃は感じていた。  ずっと憎まれていると思っていた人が、気にかけてくれていた。それどころか、悪いのは自分だと、頭を下げている。信じ難い光景に、抱えていた負の感情が粉々になって散っていくのを感じた。 「プライドが邪魔をして、自分からお前に歩み寄るこもしなかった。大学で久しぶりに会った時に謝罪すればいいものを……俺は……」 「そんな事ないです! あ——いや、すいません大きな声出して。でもそんな風に自分のこと言わないで下さい。真希人さんは俺の憧れる大人の男性なんです、初めて会った時からずっと」 「憧れ……。そんなカッコいいもんじゃないよ、俺は。お前に謝るのが恐くて、何年も逃げて罪を引きずってる情けない男だ」 「真希人さんはカッコいい大人です。俺には家族がいないから眞秀が羨ましかった。優しくて頼もしいお兄さんを持つ眞秀が……」 「千乃……」  自分だけひとり置いて行かれた寂しさを噛み締めながら、千乃は睫毛を伏せた。  大好きな母も小さな弟も救えなかった自分と、藤永とは雲泥の差がある。  同じ『兄』だと言うのに……。  藤永のように強ければ、仁杉家の人間達から守り、母が命を絶つこともなかったのかもしれない——と。 「真希人さんはこれからも俺の憧れです。俺は弱い人間だから、ずっとあなたに惹かれてたんですよ」 「お前は弱くない。あんな酷いことした俺に、責めるどころか自分のことを咎め、事実を知った上でも許すと言う。何でもないことだと言える千乃は強いよ……」 「真希人さんにそう言って貰えて嬉しいです。俺、ずっと真希人さんに嫌われてると思ってたから」 「嫌うわけない! 初めから嫌ったことなんて一度もない、むしろ——」 「真希人……さん?」 「いや、何でもない——。それより俺はお前に償いがしたい」 「そんなっ。……もういいんですよ、真希人さんがこうやって話してくれて、もう充分です」 「それじゃあ俺の気が済まない! 千乃が望むことを何でもしたい。言ってくれ、何でもいい、頼む」  再び頭を下げて懇願する姿に胸が締め付けられる。  藤永がつい口にした言葉は、たった一人の弟を大切に思う余りに出た言葉だ。彼の根っこにある本質は、初めから同じ、強くて思いやりのある人なのだから。今も千乃の綻んだ傷を癒してくれようとしている。 「——それじゃあ……」 「何だ、殴らせろとかでもいいんだぞ」 「そんな事しませんよ。俺の望みは……またこうやって真希人さんと一緒に食事したい……です。ダメ……ですか?」 「メシ? そんなことでいいのか?」 「はい、それがいいんです」  千乃は満面の笑顔で応えた。 「わ、わかった、また誘う……。食いたいもん考えといてくれ」 「はいっ」 「取り敢えず、メシを食おう。それで食事が終わったら甘いもんでも食いに行くか。好きだろ? 千乃」 「え、何で知って——」 「昔、ウチで勉強した後、眞秀と三人でチーズケーキ食っただろ?そん時、お前は嬉しそうに目を輝かせて頬張ってたのを覚えてるよ」 「は、恥ずかしい。そんなこと、いつまでも覚えてないで下さいよ」  両手を大きく振って否定してみても、藤永の微笑みが見透かしてくる。  砕けた会話、笑顔、一緒に食事をすること。千乃がそれを全身で喜んでいることを。  さっきまでの淀んだ空気は消え、心地いい風が部屋の中を凪いでいる気がする。木陰のベンチに座り、ひだまりを浴びているような感覚に似ている。 「悪いな、メシが冷めてしまった。新しいの貰うか?」 「そんな、ダメですよ勿体ない。それにこんな豪華な料理、冷めてても美味しいに決まってます」  テーブルの上に並んだ珍しい料理を眺めながら、千乃は手を合わせた。  初めて口にする美味しさに感動し、夢中で箸を往復させていると、ふと視線を感じた。顔を上げてみると、表情筋を緩め、千乃を見つめる藤永と目が合った。  応えるように自然と千乃も笑みを溢すと、二人は同じタイミングで微笑みあった。  燻っていたそれぞれの胸の内が開放され、立ち止まっていた感情が動き出して行く。  藤永との再会、和解。何より嫌われていなかったことが嬉しかった。  一生味わう事などないと思っていた、心の中がほわっと温かくなる感覚を知り、千乃はこれから先も彼が笑顔を向けてくれるよう、胸の中でそっと祈った。
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