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高台にある墓園で、千乃は買ったばかりの花に差し水をしながら、冬の風に冷えた指を震えさせていた。
「今日は寒いな……。葉月は寒がりだからきっと母さんの腕にしがみついてるんだろうな」
幼い顔と、優しげに微笑む母の姿を想像すると、千乃の情動が涙を誘ってくる。頬の上を伝う雫が冷たくなぞるのに気も留めず、千乃は静かに目を閉じ、冷えた手を合わせていた。
ささやかに過ごすはずだったあの日、街中はクリスマス一色だった。
築何十年か不明なくらいのボロくて小さな部屋は、母が一人で稼いで支払えるギリギリの家賃だった。
裕福じゃなくても三人でいれば幸せだった。絵本もおもちゃもなく、口にする食事も僅かなもので、空腹が満たされることも少なかった日々。
それでも雨が降れば、窓ガラスに伝う雨粒を指で追いかけて遊び、晴れ間が覗けば葉月と一緒に虹を探して、空を見上げていた。
自然の中でも楽しむことができる——そう教えてくれたのは母だった。
真夏の攻撃的な暑さにも、凍てつく隙間風が針のように体へ刺しても、三人の手の温もりを感じれば辛くはなかった。
視界を奪えばあの懐かしい頃へと戻れる。けれども失った命には触れることも出来ず、遠く辿り着けない場所にいる二人までは果てしなく遠い。
「千乃——」
朔風が耳元を横切る音と合わさって名前を呼ばれた。
砂利を踏む音の方へ千乃が顔を上げると、八束がすぐ側に立っていた。
「八束……さん。どうして……」
ユリの甘い香りを纏いながら、憂を満ちた表情で八束は墓石を眺めていた。
「……今日お前がここに来るって知って来たんだ。ごめんな、勝手に来たりして」
「そんなこと言わないで下さい。俺以外にここへ来る人間なんていないから、母も弟も喜んでると思います。ありがとうございます」
「ありがとう何て言わないでくれ。俺が今日ここに来たのは、千乃に——それと、お袋さんに謝るためなんだ」
「謝る……? 何で八束さんが俺に謝るんですか。俺はあなたに感謝こそしても、謝られる事なんてありませんよ」
墓石の前にそっと花束を置き、千乃の言葉を聞きながら八束が手を合わせていた。
広い背中に重ねるよう、白衣姿が千乃の脳裏に蘇る。髪も短くし、血気盛んに患者と向き合っていた今より少し若い八束を。
「……違うんだ。……お前はただ忘れてるだけだ、あの日のことを。俺達がお前にした医者として——いや、人として、してはいけない事を……」
砂利を踏み締め、立ち上がる八束がなぜか心細げに見える。
いつもより小さく感じた千乃は、手を差し伸べようとした瞬間、押し殺したような悲痛な声で名前を呼ばれた。
「や……つかさ……ん?」
「……ずっとお前に話す機会を探していた。でも意気地がなくて、今日までズルズルと言えずにいたんだ」
「どう言う……事ですか」
顔を手で覆い、苦悶の表情をする八束は今にも昏倒しそうに弱々しく見え、千乃は支えるように八束の腕を掴んだ。
「千乃と二度目に会った日は、お前が救急で運ばれて来た日だった。意識が混濁し、刺激を与えても無反応だった。細い首に絞められた跡を見つけた時、ゾッとしたのを今でも覚えてるよ」
「——俺はその時の記憶があまりなくて。気付いたらベッドの上で、天井のライトが眩しかったことしか覚えてなかったな……」
墓石の前で立ち竦む二人の足元を、木の葉がカサついた音をたてて転がっていく。それを避けて千乃の爪先が八束へ歩み寄ろうとすると、向かい合っていた足が逃げるように後退りをした。
「……搬送されて来たお前は精神的暴力を受けた挙句、体に乱暴もされていて命が危なかった。無理心中で生き残ったあの日から、千乃の身に何があったのかを想像くらい出来たのに、俺は……何も行動を起こさなかった」
蓄積された思いを嘔吐するよう、八束が告白を続けた。
「あの時から一時的にPTSDを発症したお前は、喋ることも出来ず、食事すら取れなかった。眠ったかと思うと、次の日には一日中目を見開いたまま、ジッと天井だけを見つめていたよ」
「なんとなく……覚えてますよ。食べ物を飲み込めば喉が痛くなると思って……。それが恐くて口にしたくなかったんです」
「そうなってもおかしくない事をされてたんだ、千乃は。食べ物にガラスの破片が入ってた、細かく砕いて料理に混ぜてたんだろう。お前はそれに気付きながらも我慢して食べたんだ。義理の母が作ったものだからって……。お前の口の中や喉は傷だらけになったいたよ。胃を通って自然と排泄されるまでは、気が気じゃなかったな」
治療した八束だから気付けたことだ、ガラスの破片のことも体に刻まれた傷痕も。トラウマになった、首を閉められたことも……。
「食べないと……怒られましたから……」
千乃は無意識に大腿部に手を置くと、そこをひと撫でした。
「その足……そこにも火傷の痕があるよな。煙草を押し付けられた痕だ。他にもたくさんの嫌がらせを受けていた、体を診れば誰だってわかる」
忘れたくても身体に刻まれた記憶は消えない。千乃がこれまで生きて来れたのは、それらを無理矢理なかったことにして来たからだ。
「義理母の気持ち、俺には分かります。愛する人が、別の誰かに奪われたらおかしくなっても当然です。ましてや愛人の子どもを敷地内に住まわせるなんて——。きっと辛かったと思う。俺は恨まれても当然なんですよ」
「……理由はどうあれ、お前が受けた行為は虐待だ。だが、俺も同様にお前を傷付けていたのも事実……だ」
悲しげに見つめられ、千乃は抜けた記憶の一部を思い出せず、歯痒さで唇を噛んだ。
「言ってください、八束さんがずっと抱えてきたものを。俺は何を聞いても、あなたに対する感情は変わらないですよ」
向き合うことから逃げてしまわないよう、八束の腕を掴んでそこに力を込めた。
「……俺には分裂病を抱えていた妻がいたんだ」
「分裂病?」
縷紅草でもいいのに、わざわざ千乃の家族が眠る墓地まで来て話そうとする意味を、墓石に目を向けた後、八束の顔を見て悟った。
「分裂症は精神病障害の一つで、妻はその疾患の陽性症状だったんだ。だから日常的に普通の生活をするのが次第に困難になってね、俺がいた病院——秦野協立総合病院の精神科に入院していたんだ」
「どんな病気……なんですか」
「精神分裂病ってのは幻聴や妄想、思考奪取、思考伝播、他にも、誰が見ても異常だとわかる症状が徐々に身体を蝕んでいくんだよ」
「思考奪取? 伝播……俺には難しいですね」
「ああ、そうだな専門用語だもんな。幻聴はわかるよな?」
「はい、わかります」
「思考奪取や伝播って言うのは、自分の考えてることが他人に抜き取られたり、吹き込まれているんじゃないかって錯覚することだよ。抵抗したくても、人形のように操られてるんじゃないかと一旦思い込むと、興奮したり暴力を振るったり、時には自殺までも……するんだ」
「自殺……。なんでそんな病気に。原因ってあるんですか?」
「原因は……ない。脳に障害が起こった訳でもないしな。痴呆症と同じようなもんなんだよ。呼び名が違うだけで」
「……でも、発症した時って奥さんは若いんじゃ——」
「そうだな、まだ二十代だった」
「ちょ、ちょっと待ってください。さっきから奥さんのことを、過去形で話してますよね。も、もしかして——」
「ああ、自殺したんだ。やっぱ千乃は覚えてないんだな……」
「ど、どう言う事ですか? お、俺が奥さんの自殺に関わってるんですか!」
深い溜息が八束の口から溢れ、不意に差し出された手が千乃の頭に触れた。だが、その手は少し怯えているように思えた。
「妻が死んだ日、いつもより救急患者が多くて、俺は次から次へとやってくる処置に追われていた。妻が病室からいなくなった知らせを看護師から聞いても、直ぐに動くことも出来なかったんだ。それに病室を抜け出すことは、今までにも何度かあったからね」
救急医として働く八束の忙しさは千乃もよく知っていた。それに大切な人を蔑ろにするタイプじゃない事も。
八束の綴る言葉を頭の中で想像しながら、自分がどう関わっていたのか予想出来ず、千乃は次第に身体を強張らせていった。
「……奥さんは見つかったんですか」
「……妻——詮子は屋上にいたんだ。そして千乃、お前もその場にいたんだよ」
「えっ! お、俺が——」
「ああ……」
「お……れは、何でそんなとこに……。分からない、何も覚えてない。奥さんに会ったのも、そこで何をしていたのか……何も」
「千乃が入院していた時、言ってたよな、夢で天使を見たって」
「……話しました、綺麗な女の人に手を握られたって」
「それは夢じゃないよ。それが詮子だ……。あいつはお前を道連れにしようとしたんだ」
「え……? 道連れ? 何の道連れ——」
言いかけて理解した。八束の妻と一緒に屋上にいたことも。
「……あいつはお前の手を引いたまま、屋上から飛び降りてしまったんだ……」
「そ……んな。あれは夢だったんじゃ——」
苦悩に歪んだ八束の顔は必死で涙を堪え、声を振り絞って告白をしている。
現実味のない話しを聞いても、千乃の抜けた記憶と夢だと思っていた場面は重ならない。
「——詮子が自殺する前の日だったよ、千乃が搬送されてきたのは。その時の千乃は、錯乱状態で意識は朦朧とし、泣きながらずっと謝ってたよ、ごめんなさいってな」
「……覚えて……ない」
「覚えてないのは当然だ。あの時、仁杉家のお手伝いさんが見つけてなかったらお前は危なかったんだ。本当に危険な状態だったんだよ。お前は二度も死ぬ思いをして生命が危ぶまれた。だから一時的に記憶がないなんてことは当たり前なんだ」
「でも、俺は屋上にいたんでしょ? 俺が八束さんの奥さんと最後に会ったんだ。天使だと思ってた人が奥さんだったから……」
情感が膨れ上がり、皮膚一枚隔てただけの場所で、千乃の心臓が激しく脈打っている。
千乃の頭の中で責め立てるよう響く言葉。
また見殺しにしたのか——と。
「病室を抜け出すことはあったけど、自殺行為は一度もなかったんだ。また病院のどこかにいるもんだと、俺はたかを括ってた」
「八束さ……ん。ごめ……なさ……俺——」
身体の内側を抉られるような悲しみが千乃を襲い、言葉と共に滂沱した。
「何で謝るんだ。悪いのは大人達——俺なんだ。自分の保身のために、妻がお前を殺そうとしたことをずっと黙ってたんだから」
「違います! 俺が、俺の意識がちゃんとしてたら止めることができたかも知れないのに……。奥さんを救えたかもしれないのにっ。また俺のせいで——」
母や、弟意外にも自分の目の前で命を失くした人がいたことに罪悪感をかんじ、なぜ、お前だけがまた生きているんだと、どこからか声が聞こえた気がした。
「俺が屋上に駆けつけた時、詮子は千乃の手を握ったまま、身を投げるとこだった。お前が虚脱状態だったのをいいことに、あいつは千乃を道連れにして飛び降りたんだ」
「そん……な」
「詮子は頭を地面に打ち付けて即死だった。唯一の救いはお前が助かったことだ。華奢な体は、幸いにも木の枝に支えられた。それでも千乃の体は傷だらけで、意識を取り戻すのにも数日かかったんだよ」
「また……俺だけ助かった……んですね」
「おい、さっきから何言ってるんだ! 詮子はお前を殺そうとしたんだぞっ! 千乃が助かってくれて俺がどれだけ嬉しかったか」
八束に力強く両肩を掴まれ、千乃の頬を伝う涙が空を舞った。
加害者の心理が支配する千乃は、八束の言葉や熱さは疾風のように心をすり抜けていくだけだった。
「俺の方が死んでればよかったんです……。そうすれば八束さんも苦しまずに済んだんですよ、罪悪感を抱えて生きることもなかったの——」
「やめろ! そんなこと言わないでくれっ!」
叫び声と同時に千乃は抱き締められた。
大きく広い胸は震え、それでも腕に込められた力は強く、全身で謝罪しているようだった。
「や……つかさん」
「……だけじゃないんだ」
「え……?」
振り絞る声が再び千乃の耳に注がれてくる。
「それ……だけじゃない。俺も——病院も千乃の父親も……」
「あの人は俺のことなんて歯牙にもかけません。俺の存在は、ないに等しいものですから」
疎ましい存在である千乃を、仁杉が守るわけないのは聞かなくてもわかることだった。
「作った笑顔を貼り付けたように笑うな……。でも、お前にそんな顔させるのは仁杉だけじゃない、俺や——病院も千乃に残酷なことをしたんだ」
「でも、虐待は仁杉の家と俺の問題なん——」
「そうじゃない! 妻の件で病院の事務長と仁杉さんの間で、秘密裏な取引があったんだ。仁杉さんは千乃への虐待を隠したい、警察に報告しないことを事務長に提示した。殺人行為をなかったことにする代わりにと……」
「なかったこと……?」
「そうだ……。仁杉は自分の妻が千乃に虐待して殺しかけたことを隠したかった。病院は——俺の妻が千乃を殺そうとしたことを隠蔽したかった。互いの利点だけを考え、お前の命を蔑ろにしたんだ」
喉の奥で長年躊躇っていたであろう八束の言葉は、血反吐を吐くように放たれた。
悲痛な訴えを聞いても、曖昧な記憶しか持たない千乃は自分を責めることしかできない。
「こんな事、謝っても許される事じゃない。いくら詮子の精神が正常じゃなかったとは言え、こんなの病院側の……俺の都合のいい言い訳だ。千乃が心的外傷を患っていたからって、千乃を殺そうとしたことを、有耶無耶にしていいわけなかったんだ」
千乃は微弱に震える胸の中で、滂沱しながら首を横に振り続けた。
人ひとりの命が目の前でまた消えた。
自分の意識さえ正常だったら、その人を救う事が出来たかも知れなかったのにと。
「それでも……俺はまた助けることが出来なかったんですね……」
「それは違うよ、千乃。お前は被害者なんだ」
「でも、母さんも葉月も俺の目の前で死んでいった。や……つかさんの奥さんも……俺が直ぐ側にいたのに——」
嗚咽し、壊れたように泣き叫びながら、千乃は膝から崩れ落ちた。
どうしようもない怒りをこぶしに込め、激しく砂利の上に何度も叩きつけながら。
「やめてくれ! お前が自分を責める理由なんてないっ。苦しめたくて真実を打ち明けたんじゃないんだ。お前が持つ……罪悪感の呪縛から解放してもらいたいだけなんだ」
千乃の心を表すよう、凍えた手は砂利で擦り切れ、血を滲ませてた。
意識障害な状態であったとしても、目の前で人が死んだ事実が自分の無能さを突きつけてくる。
「……俺、退院した後、病院に行ってみたんです。八束さんに会いに……。でもあなたは退職していなかった。もしかしたら全て自分のせいにして、責任を取らされたんじゃないんですか……」
「それは違うよ。弱かった俺は千乃を傷つけたまま、後めたくて逃げた。恐くて病院から逃げ出したんだ……」
悲痛な声が墓園に響く中を、急きたてるような風が二人の間をすり抜けて行った。
日の入りと共に残った体温を奪ってこようとしても、今の千乃に寒さは感じない。
凍りつく地面に膝をつけたまま、深々と頭を下げていると、八束にパチンと頬を叩かれた。
「いいか、よく聞けよ。千乃はこれっぽっちも悪くない。全て植え付けられた感情だ。俺はお前のお陰で救われたって思ってるくらいなんだぞ」
「……救われた?」
「ああ……。遅かれ早かれ、妻は命は失っていた。医者も……辞めることになってたと思う。けどな、滝さんに誘われて縷紅草って生き甲斐をもてた。千乃にいつか俺の告白を聞いてもらうことを目標にし、これまで生きてきたんだ」
「八束……さん」
「それに、成長したお前と一緒に働けるのが嬉しかった。美しく生きているお前に俺は元気も勇気も与えてもらってたんだ。俺は責められて当然の人間だから、せめて千乃の役に立ちたかった。けど縷紅草の仕事がきっかけで、お前の不快な記憶が蘇るんじゃないかと、心の片隅では後悔もしてたんだけどな」
八束に体を起こされ、千乃は幼い頃のようにその腕に抱きすくめられていた。
ずっと長い間、頭の中に靄がかかっていたものが、疾風に吹き飛ばされたように、クリアになって世界が広がった。
「千乃、許してくれとは言わない。だからバイトは辞めないで欲しいんだ。大学卒業するまでは、お前の側にいさせてくれ」
「……俺はまだ、八束さんに甘えててもいいんですか……」
「甘えろよ! お前は被害者なんだ。なのに千乃はなぜ加害者になろうとするんだ。悪いのは俺を含め、周りにいた大人達だろう」
「八束さん……」
どうしたって自分を責めてしまう。
母の決意を止めれなかったこと、仁杉を父に持ってしまった運命。葉月を失ったことや、八束の大切な命を救えなかった真実。義理の母を苦しめ、鬼に変えてしまったこと。それと、藤永に頭を下げさせてしまったこと。これら全ての贖罪を生きていく限り、千乃は背負って生きて行こうと心に決めていたから。
「千乃は何も悪くない、ひとりで苦しまないでくれ。もっと俺を頼って欲しい」
抱き締められた手のひらから温もりが伝わる。父のような、兄のような安心できる温度を感じ、この腕に頼って生きていいんだと力強く背中を掴んだ。
「黙っていたこと、申し訳なかった。弱い大人ですまない……」
項垂れる八束を前に、千乃は呪縛に縛られていたのは、自分だけじゃないんだと知った。八束も同じように大切な人を失い、苦しみ、これまで生きて来た。そのことが痛いほど伝わる。
「ありがとう……ございます。その言葉だけで俺、また前を向いて歩いて行けそうです」
「店……辞めないよな」
心細そうな表情の八束に一笑し、千乃は小さく首を縦に振った。
甘えてもいい……、頼ってもいい。
これまで無縁だった事象に戸惑いながらも、それ以上の嬉しさを千乃は実感していた。
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