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 珍しく午後の講義がなかった冬晴れの金曜日、千乃は南青山に足を延ばしていた。  昨夜遅くにかかってきた眞秀からの電話は、大学とバイトで疲弊していた体を癒す嬉しい誘いの内容だった。  スマホの向こうから久しぶりに聞いた明るい声は、千乃の疲れをあっという間に吹き飛ばしてくれた。  閑静な雰囲気の街に似合いの美術館は、普段着の喧騒を忘れ、落ち着いた空間の中で、絵画を楽しむのに最適な場所にあった。  昼食をとる時間も惜しんだ千乃は、現地集合の指示のもと美術館の入り口で、親友の姿が現れるのを心待ちにしていた。  敷地内にある、御神木のような樹木は、長きの時間この場所で空を見上げて来たのであろう、落ち着いた風格を放っていた。  樹々たちを見上げながら、千乃は冷たく頬を撫でる風を感じていた。  建物を覆うよう枝をはためかせる雅な様は、穏やかな心を自然と生み出す存在。こんな気持ちになれたのも、藤永との蟠りが解けたことと、八束から聞いた真実のおかげかもしれない。  ただ生きた骸だった自分に、生気が宿ったように感じ。それがこんなにも心を軽くさせる。  以前よりもっと自然を美しいと愛でる余裕を与え、生きている喜びを実感させてくれた。 「おーい、ゆきー」  緩やかな坂道から、静寂に響かせる声と共に、跳ねながら駆け上がって来る見慣れた姿を見つけた。  息遣いが次第に近づき、相変わらずの黒目がちなデカい目を煌めかせ、眞秀が駆け寄って来た。 「おー。眞秀」 「ごめん、待たせた?」  白い息に額にうっすらと汗を光らせ、微笑んでくる。  癒しを無限に与えてくれる親友と会うのは一ヶ月ぶりだった。 「いいや、全然」 「ゆきは優しいから、待たせてても文句言わないもんなー」 「そんな事ないよ。興味ある画家さんだったから、待ってる時間もワクワクしてたし。それより眞秀、チケット——」  そう言いかけた千乃は、不意に額へと護符のよう張り付く、薄紫色のチケットを上目遣いに見つけ、それをしげしげと手に取った。 「ふふーん、どうだ。忘れなかっただろ」 「『今日は』な。やれば出来るじゃん、眞秀も成長したな」 「なんだよ、今日はって。聞き捨てならないなー」 「ハハハ、悪い、悪い。冗談だって」 「んだよっ。メシ奢ってやろうと思ったのにさ」 「え、マジで? 眞秀さん。いや、眞秀様、俺、肉食いたいです」  懇願するよう、千乃は自分よりも少し小さな背中に甘えて見せた。 「眞秀様かー、いい響き。よろしい、私が奢って進ぜようぞ」  戯けて言葉を掛け合うと、高校の時にもこうやって戯れあっていたことを千乃は思い出した。でも、その頃は今のように気軽に眞秀の体へ触れることも躊躇われ、自分の中で燻る欲望を抑え込むことに必死だった。  楽しむ余裕も持てない、まるで苦行のような毎日を過ごしていたっけ。 「やったね。でも、肉は冗談だから。なんか地元の珍しいもんにしよ。奢りも冗談で言っただけだからさ」  入り口でチケットを係員に見せながら、千乃は先へと歩み進もうとしていた。すると後頭部をペチンと叩かれ、振り返ると目を吊り上げている眞秀がいた。 「ゆき。お前なー、俺に遠慮するな。昔っからお前はどっかで一線引いてくる。その悪い癖は治せ」 「遠慮……? してるかな、俺」 「してるよ。けど、それも含め『千乃』なんだってこと、俺は分かってるから気にしちゃいないけどさ。ま、俺には甘えろってことだよ、うん」  眞秀の発した言葉を聞き、千乃はその場に呆然と立ち尽くしてしまった。  昔の自分は至って普通にしているつもりだった。だが、眞秀にはそう映っていたのだと改めて知った。  高校の頃、風邪で学校を休んだ時、一度だけ眞秀が見舞いに来てくれたことがあった。その時、彼が感じたであろう仁杉家の不穏な空気。  息子だと言うのに閉じ込めるよう、敷地の隅っこで小屋のような住居にひとり生活をしていた千乃を見て、詳しい事情は分からなくとも、離れ(そこ)に住まざるを得ない理由を、眞秀でも想像することは出来ただろう。  加えて住人たちが千乃を見る侮蔑した視線は、高校生ともなればいくら天然の眞秀でも、理解は出来たのかもしれない。  千乃が仁杉の家で受けていた陰湿な行為を。 「本当、眞秀には敵わない……」 「だろ? だから俺に甘えとけって」 「甘える……か。最近もそれ言われたな……」 「へー、それ言った人、きっと良い人だよな」 「どうしてそう言える?」 「だって俺が『良い人』だからー」  屈託のない笑顔で鼻の下を指で擦りながら、自分の言ったセリフに照れている。そんな眞秀のことが大切で、大事な親友なんだと千乃は改めて自覚した。 「くっ! ぶっ、アッハハ。お前、自分で良い人って——」  あまりにも誇らしげに言う眞秀が愉快で嬉しくて、千乃は涙を誤魔化すように声をあげ笑うと、眞秀も一緒になって笑っていた。ただ、それはすぐ、美術館のスタッフの咳払いと、ひと睨みを喰らい、千乃達は肩を竦めながら、すごすごと受付を通り過ぎたのだ。 「ゆき、怒られてやんの」 「眞秀も同罪だっ」  小声で眞秀に反撃して見せた千乃も、このやり取りが楽しくて心地よくて、心を弾ませていた。こんな感情になれたのも、藤永と再会し、彼の真意が分かったからだ。 「でもメシは奢っちゃる。アニキに臨時収入もらったんだ、今日ゆきと会うって言ったら、二人で旨いもんでも食って来いって」 「え、真希人さんが」 「そうそう、たまにはアニキらしい事でもとか言ってさ。勤務先も移動になって実家と近くなったし、ちょくちょく帰って来るんだ」  幼い頃から兄のことを語る眞秀は、本当に嬉しそうに話す。  二人を羨ましくも、どこか嫉妬する自分に嫌気がさしていたこともあった。    ——俺は、眞秀になりたかったのかもな……。  明るくて人懐っこい性格に、優しくて大人の兄を持つ。そんな風に自分もなりたかったのかもしれない。 「そっか……真希人さん、帰ってくるんだ……」  知り合った頃にはもう大人で警官だった真希人を、遠い存在だと思っていた。でも來田の一件で再会し、互いの思いを口にしたことで、距離が縮んだような気がした千乃はそれがとても嬉しかった。 「ゆきはアニキのことが好きだもんな、高校ん時からさ」 「えっ!」 「何驚いてんのさ。今更だろ? ゆきはアニキの話しすると、嬉しそうに聞き入ってたじゃん」 「そ、そうだったかな……」 「そうそう。俺のこと好きだって言ってたのも、兄弟で仲良くする仲間に入れて欲しかったんだろ? ゆきは寂しがりだもんな」 「さ、寂しがりって。俺のことそんなガキみたいに思ってたのか」 「だってガキだろ、ゆきは。俺がいなかったら寂しそうにしてさ。でも、絶対言葉にしないんだよ、お前は」 「そんな……ことは」 「さっき甘えろって俺言ったけど、よく考えりゃ結構ダダ漏れだったよな、俺には」 「ダダ漏れ——って何がだよ」 「ゆきが甘えん坊なのと、アニキのことが好きなとこがさ」 「あ、甘えん坊って——。それに真希人さんを、す、好きって——」 「はいはい、照れない照れない。ほら、絵を堪能しようぜ」  普段はマイペースで、どこか庇護欲を掻き立てられる存在なのに、千乃が精一杯の虚勢で隠していた感情を簡単に暴いてしまう。けれどそれに気付いていても茶化すことなどしない。いい意味で無念無想な心の持ち主だからこそ、好きになったのかもしれない。それがたとえ寂しさや、兄弟愛欲しさからだったとしても。 「眞秀がひとりでくっちゃべってるからだろ、もう最初の方、素通りしちゃったじゃないか」 「あれ、ゆきそんな事言っていいの? 焼肉——」 「あー、眞秀さん。ほら、君が見たいって言ってたのあれだろ、ほら正面に飾ってる『動脈(めぐる)』ですよ」  太鼓持ちのように眞秀の機嫌をとる仕草を見せ、二人は顔を見合わせて微笑み合った。 「そうそう、これが一番見たかったんだ。(しゅう)が描くこの絵」 「すごい迫力ある絵だよな。これ人間だろ? で、体の上をなぞるように流れる赤や青の——」 「そうそう、静脈と動脈だよ、きっと。なんか生きてるって感じするよな」  繊細な色使いの中、浮き彫りのように描かれている生命の証。  ただの線が生きているように畝り、今にも鮮血が飛沫のように飛び散って来そうに見える。 「すごいな……こんな絵を描く人ってどんな人なんだろう」  暫くの間、無言で絵を見つめ続けている二人の背後に人の気配を感じ、千乃は思わず後ろを振り返った。 「どこの若造が騒いでるかと思ったら、お前だったのか」 「あ……」  振り返った先にいた人物を見て、千乃は思わず後退りしていた。 「ゆき、どうした——って、この人知り合い?」 「ここはお前には似つかわしくない。さっさと帰ったらどうだ」 「ちょ、あんた何言ってんだ。ゆき、誰だよこいつ」 「——だ……」 「え? 何? なんて……」 「ち……父親……だよ、俺の……」 「親父? 本当に、ゆき。だってこんな——」  いかにも高級そうなスーツを見に纏った仁杉(にすぎ)晴臣(はるおみ)が、背後に部下らしき男と、秘書の女性を伴い無表情で立っていた。 「とっとと出て行ったかと思ったら、のうのうと絵画鑑賞か。気楽な奴だ」 「あんた、ゆきの父親のくせに何でそんな言い方をするんだっ」 「父親か——。そいつは、たまたま私の種で出来たまがい者だ」 「な、まがい者って——。父親が子どもに言う言葉かよ」 「眞秀、いいよもう。今更なんだよ、この人と俺の関係は」  今にも仁杉に掴みかかろうとする眞秀の腕を掴み、忍苦の表情で千乃は制止しようとした。 「不愉快な小僧だな。類は友を呼ぶとはよく言ったもんだ」  仁杉の卑劣な口から溢れたセリフに、千乃の抑えていた怒りに火が付き、栗色の虹彩に憎しみの炎が灯った。 「俺のことは何て言われてもいい。けど、眞秀——友達のことをあなたにとやかく言われる筋合いはない」 「偉そうな。お前を仁杉家の眷属とは認めてない、跡取りは一人で十分だ。母親を見捨てるような奴の顔など見たくないな」  吐き捨てるように放たれた言葉。それは寸分も狂わず千乃を攻撃してくる。大切な命が消えたのはお前のせいなんだと。 「……すいません。あなたの前には二度と現れませんから……」 「その言葉、覚えておくぞ」  皮肉めいた言葉を吐き捨て、仁杉が去って行こうとしたと同時に近付く人影が目の端に映り込んだ。 「あれ、もしかして、ユキちゃん?」  会場の奥から名前を呼ばれ、千乃は声のする方を凝視した。 「あっ——えっと……」 「柊だよ、忘れた? マキちゃんの知り合いでこの前会ったよな」  肩までかかる髪をかき上げながら、柊が和かに微笑んでいる。 「あ、あのカフェで会った。すいません、俺分からなくて——って、えっ! あれ、あの、もしかしてこ、この絵を描いたのって、あなたが、画家の柊さんなんですか!」  藤永との蟠りが解けたあの夜、偶然カフェで会った柊が忽然と千乃の前に現れ、無邪気に笑顔を向けている。 「そう。この絵は俺が描いたんだよ。って言うか、ユキちゃんこそ仁杉の社長と知り合いだったんだ。どーいった繋がり?」 「柊先生、そいつは私の愚息ですよ。『血』だけのね」 「ちょっ! あんたさっきからなんでそんな言い方するんだ!」  千乃に腕を取られたままだった眞秀の怒りが再び再燃し、仁杉に喰ってかかろうとした。 「……へぇー息子ね——。ってことは、ユキちゃんの名前は、『ニスギユキノ』なんだ。で、そっちの鼻息を荒くしてる子は彼氏? 浮気ならマキちゃんに報告しよっかなー」 「う、浮気って、眞秀は親友です! 真希人さんの弟なんですよ」 「えっ! 弟? マキちゃんの? それはまた愉快だ……」  どこか含みを持たせる口調の柊に気付かず、千乃は今すぐにでもここから飛び出したかった。一分一秒でも早く仁杉から遠去かりたかった。だが、眞秀が楽しみにしていた絵画展を、むげにすることは絶対に出来ない。おまけに作者本人が目の前にいるのだ、眞秀が喜ばないわけがない。 「社長、そろそろお時間が……由元先生も」  部下が諭すよう囁くと、それを合図に仁杉は汚物を避けるよう、千乃の横を通り過ぎて行こうとした。 「——じゃ、お得意さんが命令するんで俺も行くよ。ユキちゃんはゆっくり見ていって。そこの君も、お兄さんにもよろしくな」  そう言うと柊は背中越しに手を振りながら、仁杉の歩く方へと踵を返した。けれどもその視線は再びそっと振り返り、眞秀に肩を抱かれて、項垂れる千乃の方へと向けられてた。
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