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 千乃はドアの前で、ノックしようとする手を寸でのところで止めた。  これから話そうとしていることは、余計なお世話かもしれないと思ったからだ。  単純に思い立ったからではない、ただ、幡仲の役に立ちたかったし、講義中に感じた不協和音をどうにかしたかったからだ。    人文学部の講師を務める幡仲の講義は、話が面白いことが定評で、特に心理学の授業が生徒から人気があった。  今日も楽しい講義になるはずなのに、それが有らぬ噂が広まったせいで、講義にも生徒にも支障を来していた。  ──教授はいつも通りに見えたけど……。  幡仲を心配し、教授室まで来たものの、千乃は言葉の選択に当てのないまま、ドアの前で立ち竦んでいたのだ。  藤永から聞いてるわけではないが、來田の一件で事件の話しはだいたい理解できていた。幡仲が疑われていることも。  だからと言って、自分なんかが助けになるとは思えない。けれど、何かしたかったのだ。 「やっぱひとりじゃなく、悠介にも来て貰えばよかった……」  肩で溜息を吐いたと同時に、部屋の中から何かが壊れる音がし、千乃は咄嗟にドアを開け入ってしまった。 「——驚いた……。當川君か。どうかしたのかい」 「せ、先生こそ! 何か大きな音が聞こえたから、俺——」  部屋の中を見渡すと、床の上には珈琲が溢れ、カップの破片が飛び散っているのが目に入った。 「いやー、ごめん、ごめん。驚かせちゃって。珈琲を入れようとしたら手にかかってね、熱くてカップを落としてしまったんだよ」 「そ……うだったんですね。びっくりしましたよ、てっきり——」 「僕がキレて暴れてた——とか?」  微笑みながら幡仲が破片を拾おうとする横で、千乃も同じように屈みこむと、「すいません……」と言って、砕け散ったカケラを拾った。 「なぜ君が謝るのかな。僕を心配してくれたんだろう? ああ、ほら指切れるから、触らなくていいよ」  手近にあったコンビニの袋に破片を入れる幡仲に、千乃はゴミ箱を差し出した。 「先生……何があったか聞いちゃダメですか——って、すいません、俺、また余計な事を……」  ゴミ箱を床に置くと、千乃は自分でもわかるほど、逡巡している顔で幡仲を見ていた。 「余計な事じゃないよ。ありがとう、心配してくれて」 「先生、俺——」  頭の中で彷徨っている言葉を口にすべきか、答えを出さないまま部屋に入ったものだから変に口籠もってしまった。  幡仲を尋ねて来た警察の人間が自分の……大切な人──とは言えるわけはないけれど、知り合いだと伝えた方がいいと考えたのは、幡仲が事件と無関係だと信じている気持ちからだった。 「……君にも、みんなにも迷惑かけてるね。申し訳ない」 「あのっ、先生。俺、先生に話したいことあって」 「話したいこと?」  大腿部の横で勇気を蓄積させている握りこぶしに力を込め、千乃は意を決して口を開いた。 「せ、先生を尋ねてきた刑事さんは、実は俺の……知り合いです……」 「え? 君の知り合いだって?」 「……はい。俺の高校からの親友のお兄さんなんです」 「そう……か。當川君の知り合いだったのか。もしかしたら僕のところに来ている理由もその人から聞いてるのかな」 「いえ、俺は、真希人さんから何も聞いてません。ただ——」 「真希人さん──って言うんだな、その刑事さんは。いいよ、話してごらん」  床を拭き終わったタオルを洗い終えた幡仲が、いつもの温厚な声で言ったあと、千乃にパイプ椅子を差し出してくれた。 「以前、バイト先に真希人さ——藤永刑事がある事件のことで訪ねてきました。その事件は若い男性ばかりが絞殺される、連続殺人事件だと聞かされたんです」  ゆっくりと自分の知ることを口にしながら、千乃は目の前の幡仲の様子を伺いながら言葉を綴った。 「ある日、俺と一緒に働いてる人が事件の犯人と疑われて任意で、警察に連れて行かれたんです。幸い、物的証拠もなく、その日に解放はされたんです。たがら俺、先生も同じ目にあってたらって思ったら……」 「當川君は優しいね。——その彼は、僕と同じだな……僕も警察から疑われているんだよ。被害者が顔見知りだと言う理由でね」 「顔見知り……」 「……恥ずかしい話しだけど、僕は変わった性癖を持っててね。こんなこと、生徒の君に話すことじゃないんだろうけど、僕は相手が苦しそうにする顔を見ないと快感を得ることが出来ないんだ。殺害されたうちのひとりと、僕はそんな関係だったから」 「……やっぱそうだったんですね。でも、先生、苦し……そうな顔って言うのは?」 「そうだな……例えば首を絞められている時の表情かな。こんな悪癖を持ってるから。四十半ばにして結婚も出来ずにいるんだろうね」 「そんな、悪癖だなんて——」  人なら誰しもが隠しておきたい羞恥を、他人に、しかも生徒に告白してくれる。流れ上、しかたなかったとは言え、まるで誰かに聞いて欲しかったかのような顔で吐露しているように感じた。 「でも、この耽溺(たんでき)な状況を過ごすのに、自分なりのルールはあるんだよ」 「ルール……ですか?」 「ああ。相手は同じ人を選ばない。そして相手への条件は首を絞められることで快感を覚える人、ただそれだけ。でもそれを受け入れてくれる人は少なくてね。そんな少数派の中に、僕は誰かを惑溺(わくでき)してしまうことが怖かった。だからお金で繋がる関係を選んでいる」  幡仲にとっては赤裸々な告白のはずが、どこか講義を受講しているような気分になっていた。だからなのか、大学で再会した時も、千乃がゲイでも嫌悪することもなく普通に接してくれた。そのことを考えると、自身の性癖を他人に話すのは、彼にとって取るに足らないことなのかもしれないのかもと思える。  何がなんでも隠しておきたいような秘匿を、彼はそれが、さも普通のように捉えてくれたのだ。それは裏を返せば、自分の癖が特殊過ぎだと自覚しているからかもしれない。   自分の隠したいところを打ち明けてくれる幡仲に対して一段と親近感を湧き、彼の助けになりたいと更に思った。 「……先生、俺のバイト先って縷紅草って名前の店なんだ」 「縷紅草?」 「はい。そこはプロの緊縛師がいて、毎日様々な悩みを抱えた人が救いを求めてやってきます。体を拘束しないと不感症のままの人や、好きな人が縛られていく姿に興奮を覚える人。先生のように首を絞められたいって人も結構いるんですよ。俺も……」 「と、當川くん。君も……もしかしてそうなのかい」  一瞬、幡仲の顔が高揚したように見えたが、千乃は構わず話を続けた。 「あ、いえ。俺は……性癖と言うより、トラウマ……ですかね。子供の頃、母親に首を絞められたんですよ、無理心中で……。それが原因だと思います。今でも首に触れると、あの日のことを思い出してしまうんです」 「無理心中……そうだったのか。君は苦労したんだね。今の當川君を見れば努力したってのが分かるよ」 「そんな事ありませんよ。ひとりでは出来ないことはたくさんあります。周りの人からの助けで何とかやって来れてます」  心の底からそう思えるようになった。  藤永や八束の心遣いが、罪深いと思い込んでいた心や、埋もれていた笑顔を引き出してくれたから。 「偉いな君は。それに素直で可愛い。そんな君だから、助けてくれる人が周りにいてくれたんだね」  不意に頭へと触れられ、何度もそこを撫でられた。知らなかった父親の温もりが、そこから滲み出ている気がして胸の中に火が灯ったように暖かくなった。 「世の中には俺の知らない、秘めた思いを抱えた人達がそれに悩んでいます。その苦しみを少しでも取り除けれたら——その手段として縷紅草のような店を利用して貰えたらって。あ、これは店長の請け売りなんですけど」  千乃は舌を出して戯けて言った。 「そう……か。僕だけじゃないんだね」 「はい」  感嘆を漏らすと、幡仲が立ち上がって出来上がっていた珈琲を千乃に差し出すと、デスクの端っこに尻を引っ掛かるように座った。 「僕はね、赤ん坊の時に親戚に預けられたんだ。その後、両親は揃って自殺したらしいんだ」  唐突に語り出す幡仲の過去に驚き、千乃は口元まで運んでいたカップを手前で止めた。 「親戚の家は九州のにある島で、情緒障害更生施設を経営していたんだ。今は、児童心理治療施設って呼ぶのかな。つばめの子って言う施設名でね、ADHDや脱抑制型対人交流愛着障害、自閉症スペクトラム等の診断がついていている、心身に何らかの課題を抱えている子どもを預かる場所だった」 「ADHDはわかります。集中力がなかったり、落ち着きがなく、順番待ちとかができないなどの発達障害ですよね。でも、脱抑制型対人……交流愛着障害? ってのがわかりません」 「対人交流愛着障害って言うのは、見境なく愛着行動を示す障害なんだ。通常、小さな子どもは知らない大人とかかわりを持つことをためらうけれど、この障害のある子どものほとんどが初対面の人に対しても、自分から積極的に近づき、べったりとくっついたり、しがみついたりするんだ。『脱抑制』とは抑制がきかなくなった状態のことをなんだよ」  遠い過去に思いを馳せるよう、幡仲が遠い目をして語っている。 「先生の親戚の方は、素晴らしい仕事をしていたんですね」 「素晴らしい──か。叔父は施設長なのをいいことに、陰では好き勝手やっていたからね。叔父のやっていたことを目の当たりに見てから、僕も狂っていったのかもしれない」 「……叔父さんは……何をしていたんですかれ  恐る恐る千乃は聞いてみた。 「……あれは僕が中学生の時、トイレに行きたくて夜中に起きると物音が聞こえて、音のした事務所をそっと覗いたんだ。そこには叔父──施設長と、預かっていた女子高校生がセックスの真っ最中だった。女子高生は首を絞められながら善がってたんだ……」 「先生……それって——」 「部屋の中は、喜悦の混じった呻く二人の息遣いが充満していた。学生の短い髪は汗で濡れ、叔父が動く度に月明かりで髪が輝いて揺れて幻想的だったんだ。僕は露わになった二人の姿から目を逸らすことが出来ず、不謹慎にも下半身を反応させてしまってたんだよ」  冷笑しながら語る幡仲を見て、この時経験した歪んだ思春期が今の幡仲を作り上げたんだと理解した。 「この時、僕の中に淡い初恋と同時に快楽が植え付けられた。必死で正常を装ってきたけど、一度知った情動は容赦ないよ、大人になった今でも苦しめてくる。そしてその学生と似た人ばかりを探してしまうんだ、今でも……ね」  胸に沈めた性への執着。歪んだ性癖を抱えて生きてきた幡仲が、密かに遂行するしかない秘事。その背徳感が警察からのあらぬ疑いをかけられ、彼を悩ませているのだと千乃は知った。 「過去は……どうやっても纏わりついて来るんですね……」 「……君も苦しんでるみたいだね」 「それでも命を絶つわけにはいかないですよね、生きてる限り」 「フフ、君の方が年上みたいだね。苦しかったのは君もだろうに」 「俺は……助けてくれた人がいましたから。苦しくなっても頼っていいんだって思える人が」 「……そうか。君みたいないい子なら僕も放っては置けないな。だからいつでも頼ってくれてもいいんだよ」 「先生……。俺、嬉しいです、尊敬する先生にそう言って貰えて」 「何たって、僕らは秘密を共有するもの同士だからね」  冗談ぽく言ってはくれたが、警察に目わつけられるのは尋常じゃないほど神経を使うのだろう。幡仲の横顔見つめながら、千乃の心の中で、忘れていた感情が湧き上がってくるのを感じた。 「先生、先生は事件に関係ない……そうでしょ?」  千乃は聞きたかった言葉を唇に乗せてみた。 「ああ。そう何度も言ってはいるんだけどね……」  中庭の方へ首だけを向け、幡仲が憂いた声で呟いている。心細げに見える姿を見つめながら、千乃は複雑な心境だった。  尊敬する幡仲を疑う藤永。刑事だから仕方ないのは理解している。幡仲だけではなく、來田に対してもだ。  大好きな人達が苦しんでいるのに、何もできないことが歯痒い。自分は藤永に愛を与えてもらっていると言うのに。  千乃自身の気付かないところで、自虐的精神を煽り、被害者意識が再び増殖しようとしていた。
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