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 悠介とたわいもない会話をしながら廊下を歩いていると、視線の先にちょうど自室へ戻ろうとする幡仲(はたなか)の姿を見つけた。  五十を過ぎているであろう年齢には見えないスタイル。腹などでてなく、髪も黒々している。目尻にシワ刻んで穏やかに微笑んでくれると、陽だまりに包まれたように思えた。  幡仲が二人に気付くと、何も言わずドアを開放し、生徒を部屋へと招き入れてくれた。  紳士的な仕草も千乃の憧れる父親像そのもので、自然と彼に向かって小走りしていた。 「先生、今お時間いいですか」 「やあ、甲斐君、教育実習先は決まったのかな」 「はい。先生に言われた通りやっぱ母校かなって。倍率高いけど地元の方が親も喜んでたし」 「それはよかったよ。親御さんはかわいい息子が県外に行くのは、やっぱり寂しいもんだしね。そうそう、當川君もこの間のレポートよく書けてたよ、頑張ったね」  抱えていた数冊の本を机の上に置くと、幡仲は作っておいた珈琲をカップに注ぎ二人に振る舞ってくれた。  この春から教授になったばかりで、忙しさも尋常じゃないはずなのに、生徒一人ひとりを把握してくれてる。そんなところも千乃が慕っている理由だった。 「甲斐君は四年生になると忙しくなるな。けどここが頑張りどころだから、試験もあるし体を壊さないようにな」 「はい。でも教員試験のこと考えるだけで胃に穴が開きそうです」 「まあ、そう気負わないように。君のような明るい性格なら面接は楽勝だろう。あとは本番までやるべきことをして準備を怠らないこと」 「はい、了解です。けどいいよな千乃は、もう内定貰ってさ」  羨ましげな眼差しを悠介に向けられ、千乃は返事に困ってしまった。  仲のいい友人でもこんな風に言われた時、どんな言葉を返せばいいのかわからなくなる。自慢するように聞こえるのも、謙遜して嫌味にとられてしまうのも避けたい。すぐに言葉を返せず、戸惑っていることが相手を苛立たせる原因になるのを、これまで散々味わってきたのにちっとも学習できていない。 「これまでの努力が実ったんだよ、當川君も甲斐君も。内定を貰うことも、試験を受けるってことも、日々頑張ってきた証だよ」  不安な気持ちも、会話で綻びを縫い合わせてくれる。幡仲のこう言ったところも千乃の憧れる男性だった。 「そうかもしれないけど、試験に受かったところで勤務先が見つかるかどうかやっぱり心配ですよ。時々教師って職業を選ぶんじゃなかったって思ったりもしちゃいます」  かける言葉が思い浮かばず、千乃は口を固く結んだまま不安そうな表情の友人を見守っていた。 「教師ってのは幸せな仕事なんだよ。僕は君達みたいな熱心に勉強へ取り組む生徒を持つことができて改めてそう思うよ」  言葉はよく耳にする、ありきたりな言葉だった。しかし幡仲の顔が本当に嬉しそうで、誇らしげで、聞いたものは熱い自信が漲るのを実感できる。 「そうですね。教師になるのが夢だったんだ、今更ウダウダ言っても仕方ない。腹括って、やるだけのこと精一杯やり切りますよ。な、千乃」 「ああ。だな」 「君ら二人は幸せなんだよ。目標を早々に見つけられたから。甲斐君は教師、當川君は本に関わる仕事。やりたい事を見つけた君達はとてもラッキーなんだよ」  本当にこの先生は、生徒を知ろうとする努力を怠らない。多くの生徒が志す、その先の景色を同じように見てくれようとする。きっと自分達以外にも、彼に相談にくる人間はいるのだろう。  初めて出会った時から、踏み込んで欲しい事、見て見ぬ振りをして欲しいことを知ってくれている、千乃にとって理想的な大人だった。 「俺が早期に内定貰えたの、先生のおかげですよ。一年の時から拙い俺の相談や悩みを聞いてくれたから」  入学してからの千乃は、暇さえあれば大学の図書館で過ごしてきた。幼い頃から外出に制限のあった千乃にとって、本が唯一の話し相手でしかなかったからだ。  書籍たちに囲まれる中、ただ一人千乃に声をかけてくれたのが幡仲だった。   そこで彼から聞く様々な話しが、千乃の未来に閃光を見せてくれたのだ。 「よっしゃ、俺もあともう一踏ん張り頑張るかっ」 「ああ、俺も卒論頑張らないとだな」 「そういえば君達、研修旅行は参加するのかい?」  二杯目の珈琲をマグカップに注ぐ幡仲に尋ねられ、千乃と悠介は顔を見合わせた。 「俺はバイトあるかもしれないんで……多分不参加ですね」 「そうか、残念だね。當川君は? 君もバイトかい?」  カップから立ち登る湯気の向こうから問いかけられ、千乃はつい目を逸らし言葉を選んでいた。どれを言っても言い訳がましくなりそうだと、返事を詰まらせてしまう。 「……今年の三年生は乗り気でね。僕も気迫に負けて参加を決めたんだ。来年は就活で大変だから、羽伸ばすのは今年だけって彼らは思ってるのかもしれないね」  不参加でも気にするなと言ってもらえたように聞こえ、千乃は肩に入っていた力をそっと抜いた。そんなホッとしたところに、机の電話が軽快に鳴り響き、その音に千乃は身体を再び硬直させてしまった。 「あ、ちょっと待ってて。もしもし、はい。えっ? 警察? はあ。わかりました、すぐに伺います……」  電話を切った幡仲の不穏な後ろ姿と、口にした『警察』と言う単語。その二つだけで千乃は不安をよぎらせた。  背中を見せたまま、振り返らないでいる幡仲が今どんな表情でどんな言葉を口にするのか、息を呑んで待っていた。  だが、その間に堪え切れず口火を切ったのは千乃だった。 「せ……先生、今の電話って——」  千乃の声に僅かに肩が揺れ、数秒かけて振り返ったその顔は、いつもの穏やかな幡仲だった。 「学長に呼ばれたから、ちょっと行ってくるよ。君達はここで珈琲飲んでていいから」 「で、でも……さっき警察って」 「心配しなくても大丈夫。僕に聞きたいことがあるらしい」  不安そうにする生徒二人の肩を軽く叩くと、平静を装い幡仲が部屋を出て行った。 「千乃……警察って何だろうな……」 「わからない……わからないけど……」  霧深い森の奥へと足を踏み込むような不安が湧き上がり、その思いを引き剥がすように千乃は頭を振った。 「と、取り敢えず俺達がここであれこれ考えてても仕方ない。バイトもあるし俺は帰るよ。千乃は? 講義もうないんだろ」 「あ、ああ」 「先生を心配するのは分かるけど、大した事ないよ。きっと」  日頃から幡仲を慕う気持ちを知る悠介に励まされ、千乃はそれもそうだなと思い直した。あの優しく穏やかな幡仲に限って、何かあるわけなどないのだから。 「……だな。俺も図書館行ってから帰るよ。本返さないと……」 「そうか。じゃまた来週な。あんま変なこと考えんなよ」 「ああ。悠介もな」  モヤがかる気持ちのまま悠介と別れ、千乃は別館にある図書館へ向かったが中々前へと進まない。  心ここに在らずで時間がかかり、ようやく目的地に辿り着いて用を済ませると、千乃は図書館から早々に引き上げた。  いつもなら目新しい本を物色するとこだったが、幡仲のことが気になりそんな気分にはなれない。  図書館を出て廊下を歩き進める足に、ヒヤリと巻きつく冷気を感じ、千乃はふと足を止めた。風で震える窓硝子に目をやると、裏庭では冬枯れた木々が冷たい風に晒され揺れている。その物悲しい景色が、千乃の危惧する心を煽ってくるように見えた。 「警察……」  最近耳にしたその単語を溜息混じりに呟くと、目の前の窓硝子が吐息で白く曇った。    キャンパスの廊下はコンクリート整だから、真らから体を冷やしてくる。  千乃は足を早め、アパートに帰ってこたつに潜り込むことを想像した。    ——隣のおばさんがくれたお餅を焼いて食べよう。きなこにしようか、砂糖醤油にしようか……。どっちも捨てがたい——。 「——わっ。す、すいません!」  恐れと寒さを忘れようと、思いつく限りのたわいもないことを頭に浮かべていると、廊下の角を曲がったところで誰かとぶつかった。    手触りのいい布に、微かに香るサンダルウッド。記憶のどこかで覚えていた香りに畏怖を感じ、千乃はすぐ目の前にいる人物を見上げた。 「ま……きとさ……ん」 「お前……千乃か……」  千乃より高い位置から見下ろしてきたのは藤永真希人だった。  黒いコートを羽織り、スリーピースのスーツを颯爽とこなす眉目秀麗な男。  最後に見た時より更に落ち着いた空気を醸し出してはいたが、孤高の獣のような美しさは変わらない。  変わってないものは他にもあった。  監視されるような圧迫感、じわじわと押し付けてくる威圧感。それらは高校の時に感じたものと同じだった。 「……あ……の、お……れ……」  何を話せばいいのかわからない。いや、それよりも話をすることすら、彼は許さないかもしれない。過去に受けた氷柱のように刺してくる視線を思い出し、指先が冷たくなるのを感じていた。 「千乃……元気だったか。お前、ここの生徒……だったんだな」  藤永の言葉と声に千乃は瞠目した。  声が、言葉の羅列が優しい……。  よく見ると、見下ろされている視線も穏やかだった。  千乃の知る、藤永真希人とは別人のように思える。いや、別人ではない。初めて出会った頃の表情に似ていた。    戸惑う千乃を察したのか、藤永が「三年生だろ、就職はどうだ」と、近況報告を引き出そうとしてくれる。眞秀とは別で暮らしているから、自分のことは知らなくて当然だけれど、三年ぶりに会って第一声がそれかと(りき)んでいた体を弛緩させた。 「……はい。何とか……」 「そうか。千乃は高校の時から頭はよかったけど、お前のことだ。きっと努力はしたんだろうな」  降り注ぐ言葉に俯いていた顔を少し上げ、上目遣いで見るように藤永を確認した。  優しい言葉とは裏腹に、睨んでいるかもしれない。そんな恐怖から、角度を徐々に付け、千乃は真っ直ぐに藤永を見上げた。  ——え、真希人さん笑って……る?  口角がほぐれ、キリリとした一重の眼差しが柔らかい。微かな記憶の中にしか存在しなかった真希人の笑顔に直面し、千乃は驚きのあまり声を出せずにいた。  最後に見た藤永の顔とは全く別人で、慈しむように千乃を見る姿を眩しく感じた。  鈍色の空が見えるキャンパスの薄寒い廊下。そこで再会した人は、あまりにも優しい眸を千乃に向けていた。              
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