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「なあ、なあ。お前、BDSMって知ってるか?」  経済数学の講義に似つかわしくない単語が前の席から聞こえ、當川(とうかわ)千乃(ゆきの)は思わず忌避感を眉根に表してしまった。 「なんだよ急に。またエロ動画でも観てたのか? それってあれだろ、レズ、ゲイ、バイにあと何だっけ——」 「ぷはっ。違う違う。それはLGBTだろってか、アルファベットすりゃ合ってないし。BDSMてのはな、ボンテージ、サディズム、マゾヒズムと、あと一個なんだっけなー、ディ——、あー思い出せねー」  いくら小さな声で話していても、ここが教卓から一番遠い窓側の席でも、大学の講義中にする話題じゃないだろ。  抗議するような溜息を真後ろから吐いてやると、言い出しっぺの生徒が突然くるっと振り向いてきた。 「なあ、當川。お前知ってっか? あと一個何て言ったっけ」 「アホか。當川がそんなエロいこと知ってるわけないだろーが。真面目が服着てるようややつなのに。なあ、當川」  千乃に聞こえているのを前提で、嫌味を言ってるのだろうけれど、こっちは何とも思わない。それよりも講義に集中したい。  話しを振ってくるなよと言う気持ちを込め、千乃は無言で首を左右に振って教科書に目を落とした。 「ちぇ、やっぱ知らねーか。あー、思い出せないの気持ち悪いわ」 「な、それよりSもMもわかるけどさ、ボンテージってのは何だよ」 「よくぞ聞いてくれた。俺はそれに一番興味があるんだ。あのな、ボンテージってのは、緊縛とか隷属性(れいぞくせい)とか束縛のことな。ほら、ピッタピタのコスチュームあるだろ? あれのこととかをボンテージって言うだろう」 「緊縛! エロいなお前。で、あと一つは思い出せたのかよ」 「いやー、何だっけかな……」 「もうググった方が早い──あ、やばっ教授がこっち見てるぞ。お前講義中に思い出しとけよ」 「お前こそ、如何わしいこと妄想して、あそこおっ勃ててんじゃねーぞ」  くだらない無駄話をする同級生は、教授にひと睨みされ、慌てて教卓へと向き直った。  学力向上志向で有名な大学でさえ、中二のような会話しか出来ない輩がらいるとは。  彼らの後頭部から視線を逸らし、窓の外を見ながら溜息を吐くと、千乃はその延長で欠伸をした。  もうひとつはディシプリン——って言うんだけどな。まあ、いっか。今は超絶眠い……。  睡眠不足の原因は、夕べ、閉店間際に来た客が少々厄介だったからだ。  理由は──。まぁ、いいか。兎に角今は眠い。  ハウリングで耳障りに聞こえる教授の声を聞き流し、千乃は同級生が苦悩していたワードをよぎらせながら二度目の欠伸を噛み殺した。  ディシプリンの意味が、(しつけ)とか折檻(せっかん)だと教えれば、彼らはさぞかし興奮するんだろう。  講義中にする話ではないだろうと思いつつ、この意味を知った時の千乃も多少なりと下半身を刺激されたことを思い出した。    ──思い出したのはそれだけじゃなかったけれど……。    誰にも、何にも、身には付かないくだらない話しかもしれない。けれどそれは一概には言えない。  人によっては、BDSMから成る行動が必要なこともある。症状によれば正式な病名がつくほどに。  少なくとも千乃自身は意味を理解したことによって、腑に落ちたことがいくつかあった。  唐突に首筋を触れられても、以前より反応はいくらか薄くなった気がする。  それでも悩みの種だったはずなのに、長年付き合ってきたトラウマが改善傾向になると不意に寂しさを自覚する自分がいた。  最後に母が触れた首筋。大好きだった優しい手は、未だに千乃の心を揺さぶってくる。  千乃は名残惜しそうに首に触れながら、これまで様々な客を相手に手練手管を尽くしたことで、このトラウマが透明になる寂しさを感じていた。  バイトの翌日は体が疲弊していても、心はあまり疲れを感じない。  同級生と流行りの会話をするより、一夜限りの客と触れ合う疲労感の方が楽だった。  今はひび割れた教授の声の方がよっぽど身に堪える。  この後にまだ二限も控えているかと思うと、千乃はまた溜息を吐いた。  ——でも、あの先生の講義だけは別だけど……。  優しげに笑う顔を思い出し、千乃の口角は自然と綻んでいた。
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