12.アントンの憂い

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 アントンは、今さっきの父との会話を思い出してそんな思考にどっぷりとはまっており、執務室の扉が何度かノックされたのに中々気付かなかった。 「?!……入れ!」  アントンの入室許可を聞いて入って来たのは、妻リーゼロッテだった。 「ああ、ロッティ、君か。君がここに来るのは珍しいな。どうしたんだ?」  リーゼロッテは、夫が昼間在宅していても仕事の邪魔をしないように声をかけられない限り、ひっそりと過ごしていた。そんな彼女が執務室まで来るのは、一大決心だったに違いない。リーゼロッテは、明らかに緊張して顔がこわばっていた。 「……アントン様、私にも未来の伯爵夫人としての仕事を教えていただけないでしょうか?」  アントンはリーゼロッテの隣に移って彼女の頬をさらりと撫でて肩を抱き寄せた。 「ロッティ、また母上が何か言ったの?」 「い、いえ……違います……」  アントンの母アウグスタは、リーゼロッテの妾腹の出自とそれ故に淑女教育をろくに受けていない事が気に入らず、何かとチクチク文句を言う。今回も母が何かを言ったに違いないが、リーゼロッテはそれを頑として認めなかった。 「君はそんな心配しなくていいんだ。好きな事をして過ごして」 「でも……! このままではアントン様のお役に立てません!」 「ねぇ、ロッティ。誰かの役に立たなきゃいけないって強迫観念は捨てていいんだよ」  アントンはそう言ってリーゼロッテを抱きしめた。 「や、役立たずの私でも……アントン様の隣にいていいのですか?」 「君は役立たずなんかじゃないよ。僕の心の癒しだよ」 「アントン様……」  アントンは肩を震わせる妻の背中をゆっくり撫でた。 「ねぇ、ロッティ。君はダンス好き?」 「わ、分かりません……した事がないので……」 「じゃあ、ダンス教師をつけよう。僕もたまに顔を出すから、その時は一緒に練習しよう。夜会に夫婦で呼ばれる事もあるから、君のダンスが上達したら、僕は大助かりだよ」 「……本当ですか?」 「ああ、本当だ。だから憂いを払って笑顔になって。君には笑顔の方が似合う」  アントンはリーゼロッテの頬の涙の痕を指で拭い、唇を重ねた。
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