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もう夕方なのか夜なのか、はたまた早朝なのか時間の感覚は存在しない。部屋の中は闇でほとんど何も見えないが、電気をつける気力もない。
電気をつけたところで頭痛に襲われ、でこの右上辺りにぼんやりと稲妻が見えるだけだ。
廊下を裸足で歩くと、ペタリペタリと足の裏が床に貼りついてなかなか離れない。
ペタリペタリ。
ヒンヤリとしているのがせめてもの救いだった。貼りついた足はフローリングをめくり上げそうな勢いなのに、その勢いに負けて倒れ込む自信がある。とんだコメディードラマだ。
同棲していた彼と別れて、その前に元々住んでいたマンション……ではなく、近くのマンションに部屋を借りた。気に入っていたマンションには空きがなかった。不運には不運が続く。
相当お気に入りだったマンション。だから同棲ではなく半同棲のまま、自分のマンションを残しておきたかったのだ。
だがそれを彼は許さなかった。
「お金がもったいないよね?二人なら半額で済むんだよ。しかも交通費もかからないのに、毎日会えるなんてすごいことじゃない?」
そう言われて渋々解約したマンション。代償があまりに大きすぎた。珍しく彼の意見に同調してしまった自分が妬ましい。いつもなら簡単に突っぱねるのに、どうしてこのときばかりは承諾してしまったのだろうか。
彼はすでに新しい彼女をあの家に呼び寄せていた。別れてから半年である。半年しか経っていないともいえるし、もう半年も経ったともいえるが、それは問題ではない。
私と二年間住んだあの部屋に、私の痕跡だらけのあの部屋に、今は他の女が住んでいる。
私の痕跡をどうやって消したのだろうか。まさか、消臭剤でぱっと魔法のように消えたり隠れたりはしない。姑息に一つ一つ消し去ったはずだ。彼はそういうことが簡単にできる男だった。悪口ではない。むしろ褒めている。
気力がなく、私物をたいてい置いてきてしまったので、全て捨ててくれと言い残してあの部屋を出た。彼のことだから、綺麗さっぱり隅から隅まで跡形もなく捨てているとは思うが、それもまた腹立たしかった。
さすが仕事ができる男は違うと思う。腹立たしいのにお腹も減らない。腹立たしいのに、文句は結局本人に一言も言えないまま終わった。
暗黒の中、ジャー……とトイレの水が流れる音が響き渡る。何て生命力のある力強い音だろう。部屋中に生命力が溢れて充満しても、私の心には全く届かなかった。
ペタリペタリ。
だらんとソファーに横たわり、溶けるようにそっと瞼を閉じた。
「子どもが早くほしいな。一緒にいっぱい遊びたいでしょ?年を取ったら遊ぶ体力もなくなっちゃうだろうからさ」
満面の笑みで彼が言う言葉を、いつも苦笑しながら見つめていた。
子どもは好きじゃない。うるさいし、すぐいなくなるし、ずっと一人でしゃべっている。自分勝手な生きものだ。
しかし今考えれば、大人の方が自分勝手な生きものなのかもしれない。いや、間違いない。大人は自分勝手な生きものだ。知識があるぶん余計にやっかいともいえる。
子どもがほしいと同調してほしかったのだろうか。産むのは私で、十ヶ月もお腹に命を宿すのも私。ほしくないのだからしょうがない。簡単に承諾はできない。
母親に愛されない子どもを産むわけにはいかない。自分勝手な大人になりたくはなかった。
「どうしたいのかわからない。俺を好きじゃなくなったならそう言ってほしい」
好きだから、マンションを解約してまで彼と同棲した。今なら考えられない。考えられないことを可能にしてしまうほど彼が好きだったのに、彼には伝わらなかったようだ。
大事なことなのでもう一度いう。
この私が、こよなく愛するあのマンション解約したのだ。
「他に好きな人ができたんだ。その人と付き合いたい」
大好きな彼に好きな人ができたので、別れるしかなかった。離れた気持ちはそう簡単には戻らないことを知っている。私から離れた心は今は別の形となって、新しい相手の元にある。だからすぐに承諾した。
その日のうちに部屋を出たかったが、新しい部屋を探すまでは無理だった。もう私を愛してもいない男と、しばらく暮らさなければならないという屈辱。私以外の女性を愛している男と暮らさなければない。
ああ、無情だ。
半分パニックでもある。私と同じ部屋にいながら、小まめに好きな女性と連絡を取り合っている。先の見えない私の心配などしたこともないのだろう。
床は泥濘んだ泥のようにしか見えない。
ペタリペタリ、ペタリペタリ。
歩くたびに体が沈む、溶ける、埋まる。
ペタリペタリ、ペタリペタリ。
泥が体を覆うと私の部屋はさらに闇を落として黒くなった。
今何時かは、わからない。
(了)
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