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序章
「あなたは大丈夫って聞いてもくれないし、立ち上がる手も貸してくれないのね。あたしはこんな姿なのに」
後ろ手に縛られて首には鉄の首輪も嵌められた彼女は、段に座り込んだまま悠然と、自分の首輪に繋がる鎖を掴んでいる男に微笑んだ。
男は彼女に微笑みが得すどころか、威圧するかのように鎖を握る反対の手が持つ金属棒をヒュウっと振って軽くしならせたが、彼女は、脅えるどころか子供の遊びを小馬鹿にするような母の目で見返して微笑むだけだ。
顎までの長さの髪は黒く艶やかで、先だけ癖が出てクルっと巻いている。大きな両目は長い睫毛に縁取られ、赤い唇は男を誘うように微笑んでいる。
彼女は物凄い美女であるのが、男が彼女にそそられる事がないのは、彼女の両目が必要以上に爛々と輝いているからかもしれない。
彼女は人の形をした人でなしだ。
「ねぇ、あたしのお腹の中の子供が心配じゃぁないの?」
クスクスと笑う女の腹は膨らみ、妊娠している事を窺わせる。けれどもその腹の中に生きている子供はいない事を男は知っている。妊娠したかのような姿に変わってまでも自分の美しさを保とうと考えたこの女に反吐が出るだけだ。
「さっさと立ち上がれ。俺は早く家に帰りたいんだよ」
女は一層楽しそうに笑い転げると、両手を使えなくとも上手に立ち上がり、顔をあお向けて男を小馬鹿にしたような表情を見せつけた。
「あたしを作ったようなこんな酷いものを、あたしはどこで作られるか知っているの。知りたくない? 今まで内緒にしていた情報よ」
「古臭い情報だよ。無駄話を止めて、さっさと進め」
「まぁ、そっちの方が酷い情報ね!」
キャハハハと、甲高い気に触る声で笑いながら彼女は再び階段を降りて行く。
「死者の国のザクロ一粒が一か月分なのは有名な話よね。ペルセフォネはそのために四ヶ月は冥界のハデスの妻でいなければならない。そのせいで娘を四ヶ月喪うからと豊穣の女神のデメテルが泣き叫んで世界を冬に変えてしまうようになった。素敵よね。ザクロを食べた馬鹿娘のせいで、全ての人が冬の世界を迎える事になったのよ。あたしの家族もあたしのせいで皆が不幸のどん底で、全員一人残らず死んでしまったわ」
「後悔はしているのか?」
彼女の台詞は歌うように紡がれていたが、初めて家族を思いやる台詞でも有ったので、男は思わず聞き返した。
「あたしの一番大事なものを奪った奴らよ。するわけないじゃない」
女は楽しそうに歌いはじめ、意気揚々と唄いながら黄泉平坂に通じる階段を降りて行った。
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