九 お客様の到来

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九 お客様の到来

「だって、オーナーが素敵なことを言ってくれて。それに、そんな素敵な事を言ってくれているあなたが、こんなにも痩せちゃって」  彼はそっと俺の頬に指先を添えた。  触れるか触れないかのぐらいの、俺こそその手の平に頬を預けてしまいたいと思うような優しい手の平だ。 「そうだよね。カッチーは痩せすぎだよねぇ。ごはんを数日食べていないぐらいの痩せ方だよね。それじゃあ、立つものも立たないよねぇ」  前半で止めて置けば、松井の評価が俺の中で上がったものを。 「立たせるだけなら、クスリで簡単にできるけどね」  仙波ぁ!  しかし、下品な女性二人によって飯島の涙が引っ込んだのだから良しとしよう。彼は涙を拭うと、店を開くわよと、昔に彼が使っていたテーブル席に向かい、俺の覚えているあの日々のようにそこにネイル道具を広げ始めたのだ。  松井は興味津々のようで、飯島の道具を眺め出した。 「ネイリストって、画家だよね。よくあんな小さな所に色んな絵を描けると思うよ」 「ふふ。あなたの指にも描いてあげましょうか。お近づきの印に」 「え、じゃあ私もお願いします。料金は払いますよ!」  仙波は松井を押しのけて、自分の指先を突き出した。 「ふふ、いいわよ。ただ、すぐにお客様が来るから、後でで申し訳ないけれど。オーナー、時間がある時に彼女達の爪を整えておいてね」 「えーと」  昔は彼の手伝いだと喜んだものだが、客が松井と仙波では、俺は何となく彼女達が怖いと素直に了解の言葉が出せなかった。  だって見てみろ、飯島の言葉で二人は俺をなんだか獲物のような目つきで睨んでいるではないか。二人きりになったら喰われるんじゃないかと、どうして男の俺の方が脅えなければいけないのだ。 「カッチー。私の栄養相談室においで」 「カッチー。オーナーだったらさぁ、受付にいたほうがいいよ。あたしの爪を研いでくれるんならさぁ、膝に乗っていてあげる」  俺は飯島を見た。  彼は助ける気がまるっきり無いようで、笑いの発作で小刻みに震えているだけだ。  スタッフルームに逃げるべきかと視線をスタッフルームの扉へと動かすと、忘れ去られていたやくざが扉を細く開けてこちらを伺っていた。  奴は俺と目が合うと、右手の親指を立てた。  何を頑張れと言うのだ。  でも、俺は案ずることは無かった。  今日は救いの神に恵まれていたらしく、俺は恐怖の選択から逃れることが出来たのである。 「比呂ちゃーん!」 「来たわよー!」  女性の嬌声に近い呼びかけに入り口ドアを見れば、有閑マダムという死語を体現している、お金を持っていそうなご婦人達がぞろぞろと店内に勝手に入って来たところである。  飯島にはそういえば親衛隊というものがいたと、俺は救いの神達の身上を苦々しく思い出した。  俺が女性の爪の整え方を知っているのは、こいつらを捌かねば飯島と遊べないと、俺は必死で飯島の手伝いをしていたからである。  そんな過去を思い出しているうちに、彼女達はなぜか嫌がるどころか自分から子供の俺に指を差し出して喜んでいたなぁと、高級なお菓子もくれる優しい小母さん連中でもあったなあ、という記憶が呼び起こされた。 「リョウコさん、ジュンコさん、キリコさん、メグミさん。いらっしゃいませ」 「きゃああああ」  彼女達は悲鳴のような喜び声を上げた。  俺が彼女達の名前を憶えていたことに、ここまで興奮と大喜びを見せてくれるとは思わなかった。  そして、上機嫌の彼女達は有閑どころか金満マダムだったところを見せつけるかのように、マッサージを所望どころか店内販売オイルやハーブ茶までも購入すると言ってくれたのだ。  俺は彼女達を本気で救世主だと考えた。  けれど、彼女達は俺を「みーちゃん」と呼んで、親戚の子供同然にパシリに使いたかっただけらしい。  気が付けば俺は、彼女達に呼ばれるたびに彼女達の空になったカップにハーブティを注いだり、出来上がったネイルを褒めたりと、母に見つかったら怒られそうな程に媚を売っていた。  俺は彼女達に呼ばれる度に紫ブラや黒ブラに助けを求める視線を投げたが、どちらかを選ばなかった俺は助けては貰えなかった。  まぁ、松井はマッサージ室で施術に励んでいたし、仙波も栄養士の顔をしてマダム達の栄養相談に乗っていたのだから当たり前か。  それに、どんな時も俺を助けてくれるピンクブラはいないのだ。  姉さん。 「みーちゃん」 「あ、どうしました? リョウコさん」  比呂親衛隊のリーダーでもあり、弁護士の妻だという荒井涼子が俺に母のような表情を見せていた。 「あの」 「あなたはご飯を食べているの?」 「えと、あの」 「そろそろ私達も引き上げるから、ちゃんとご飯を食べるのよ」  すると、号令がかかったかのように親衛隊が立ち上がり、なんと整然と帰り支度を始めたのだ。 「いえ、まだゆっくりしていっても」 「あら、三時間は居座ったわよ。はい、チップ。ちゃんと食べるのよ」  俺はファミレス経営者の妻だった白石順子を、人目もはばからずに抱きしめてしまいそうだった。彼女は俺に彼女の店の系列店で使える食事券を手渡して来たのである。 「ありがとうございます。食べて食べて食べまくります」  食事券を胸に押さえつけて感謝の言葉を述べただけなのだが、親衛隊の四人が笑うどころか泣きそうな顔に表情を歪めてしまった。 「うわぁ。笑ってよ」  俺は取りあえず俺に食事券をくれた順子を抱きしめた。  家を売らなければと、泣きそうだった母を抱きしめたあの日のように。  彼女はあの日の母のようにくすりと俺の腕の中で笑い、俺もほっとしたのもつかの間、畜生、あとの三人も笑顔になったが、目を爛々とさせてハグの順番を待っていやがる。  間抜けな俺は、彼女達を一人一人ハグするという労働を自分から増やしたようだ。  その数分後、俺のハグに満足したらしき彼女達はまた来るねと帰っていき、彼女達の遠ざかる背中に俺は手を振っていた。 「カッチーてさ、天然、なのかな」 「松井さん。普通に俺を馬鹿って言っていいよ」 「うーん。馬鹿だけど、あたしの言った天然は違うけどね」 「どんな天然ですか」  俺は姉が俺を揶揄う時のような表情を作った松井に振り返りざまにドアを閉め、しかし、ドアは閉じずにガツっと何かの衝撃を受けた。  ドアを止めたのは、黒い手袋を嵌めた女性の手であった。 「うわ、すいません。お怪我はありませんか? 手を挟みませんでしたか?」  まるで煙のように現れた彼女に俺は少々どころか、かなりビクついていた。  だって、人がいた気配など感じなかったのだ。  紫外線対策なのであろうが、長袖ワンピースに黒タイツ着用という、季節に反逆した服装に加えて、完全に不審者になりそうなマスクにサングラス、という出で立ちである。  普通は気が付いて当たり前の悪目立ちの姿では無いか?  しかし、目の前の黒づくめの女性は、彼女の前を通り過ぎた筈の涼子達が見逃したのがわかるほど、存在感を感じさせない存在感なのである。  ゆらりと、いまにも倒れそうな立ち姿であるのに、動きが止まった今の状態はマネキンのようなモノなのだ。  肌の露出を完全に防いでいるからだろうか。 「――あの、少し早かったかもしれませんけれど。私は、秋吉です」  彼女の本当の予約時間は午後の四時だったはずである。  けれど、彼女こそこの店を開店する目的であり、一時の客が予約取り消しであるのならば、彼女を受け入れる事に何の問題もあるわけはない。 「どうぞこちらへ。お待ちしておりました。秋吉様」  彼女を店内に誘うと、店内のスタッフの動きは迅速だった。  松井は秋吉をマッサージルームへと誘導し、甲斐と外山がスタッフルームから出てきたのである。 「おい、カーテンを全部閉めて店をクローズにしろ。お前と飯島は昼飯でも食べてこい」  俺はオーナーというパシリでしかないのか。
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