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十 お前はそっちの世界にいろ
「ふざけるなよ。俺の客だ。彼女は犯罪者じゃないだろう」
外山は当たり前だが怒った顔どころか顔の筋肉一つ引き攣らせずに、その作った笑顔のまま俺に甲斐と同じ言葉をもう一度言った。
「飯島さんとご飯を食べておいで」
「行こう。オーナー」
飯島の静かな声は俺同様に怒っているようであり、そして彼の怒りは俺が怒っているからのような気がした。
「わかりました」
俺は飯島に肩を抱かれ、完全なる敗残者のような姿でドアに向かい、けれども俺は踵を返した。
まだ、完全に閉められていない松井のマッサージ室に向かって走り出したのだ。
「おい、ちょっと。この糞餓鬼!」
俺は喧嘩はしたことは無いし、いじめにもあった事は無いが、それは俺の逃げ方が上手だったからに他ならない。
俺は小学生の子供のように飛び上がり、椅子の背やテーブルの上を上手に渡って甲斐の追跡を交わしたのだ。
「おい! 畜生! 待てって、こら!」
やはり現役の警察官だったのか、俺は甲斐に服を掴まれた。
生地が引っ張られたために一瞬首は閉まったが、古着屋にも売れなかったシャツは脆くてビリっと破れる音を響かせた。
甲斐は怯んだのか俺を引き寄せる力を弱め、俺は破れた布地のお陰で数センチは前に進めた。
ドアのノブに手が届く距離だ。
ドアのノブを掴んで大きく開け放った。
「秋吉さん! 右手に怪我をしていないかだけ見せてください!」
俺の目に飛び込んだ部屋の情景は、見慣れた施術ベッドに見慣れたマッサージルームであるはずだが、マッサージルームには見た事も無い旅行鞄ぐらいの大きさのタンクを持つ機械が二台に、これから施術ではなく手術が始まるかのような道具が揃えてある台が施術台の横に設置されていた。
施術台に横たわる秋吉は、全裸で仰臥しており、俺の騒ぎにも表情どころか目線一つ動かさない。
白い肌は彼女が色白だからではなく、血が通っていないからである。
張りのない肌はゴムの質感そのものだ。
サングラスを外して存在を露わにされた瞳は、水晶体が濁り切って、黄色く腐った茹で卵の白身のようだ。
大きく口を開けて天井を見上げる様に仰臥している彼女は、生気が無いどころか、生きてはいない死体そのものでは無いのか。
そこにいるという存在感を、全く感じさせなかった彼女。
動く、死体のような、彼女。
倒れかかった母さんは、ぐにゃりとした感触で。
「おい。いつまで全裸の女性を見ているつもりだ。失礼だろ、出ていけ。これから施術を始めるんだ。邪魔だよ」
松井は何を言っているのだろうか。
施術、だと?
この血の通っていない体のどこをマッサージするというのか。
松井はこの舞台装置に合わせた姿、ゴム手袋を嵌め、使い捨てのエプロンのような前掛けとゴーグルをつけた姿で施術台と医療器具と機械の間に立っている。
まるで、これから狂った手術を死体に施す科学者のようだ。
「そんなもの、松井さん、どうす――」
「さっさと出て行って」
「まつい――」
ぐいっと俺は再び後ろに強く引かれ、再びシャツの破れる音がしたが今度の手は力を緩めることは無く、その代償として俺は背中と尻を床にしたたかに打ち付けた。
甲斐に引き倒されたのである。
俺の目の前でドアは閉まり、数分しないでドアの向こうから頭の重くなるような重低音が鳴り響き始めた。
「何を、一体何を」
甲斐は俺に背を向けて、俺の目の前に、俺からドアを隠すかのように立ち塞がった。
「秋吉さんに、あ、あんたらは何をしているんだ」
「知ったら、お前はもうそっちに帰れないよ」
「そっちって何だよ」
俺はどこに帰るというんだ。
母さんにはいつ会えるかわからない、姉さんなんか、生死不明の行方不明ではないか。
「あんたの言うそっちに帰ったら、母さんや姉さんにまた会えるのか? 会わせてくれるのかよ!」
甲斐は何も答えなかったが、外山は俺の横にしゃがんで、子供をあやすような笑顔のまま、俺でもわかる嘘を吐いた。
「会えるよ。僕達の言うことを聞いていたらね」
俺は立ち上がって、彼らの言うことを聞くしか無いだろう。
俺は母と姉に会わねばならないのだ。
情けないと、悔しいと、逃げるしかないと、立ち上がった俺はすごすごとドアに向かい、俺を待っていた飯島と目が合った。
俺のために怒っているが、俺のように騒いだりもせずにそこにいる。
「比呂さんも全部知っているんだね」
彼は硬い表情のまま首を横に振ると、俺に手を差し伸べた。
「全部は知らない。こういう仕事をしているとね、情報通にはなるでしょう。私が知っている事だけでも教えてあげるから、おいで」
俺は飯島の手を握り、幼稚園児のように彼の後を付いていった。
姉に店から連れ出される時のようで、その時とは全く違う。
姉は俺の手を引きながら、必ず飯島を罵ったのだ。
「あいつは嘘つきだよ。会いに行くなって言っているだろ」
姉さん、それでも俺はどうしても飯島が大好きなんだ。
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