十二 夢と幻と

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十二 夢と幻と

 悪夢の開店初日からいつの間にか開店一週間目となり、気が付くと不思議なことに店が繁盛していた。  客が途切れることが無く、松井と仙波がうんざりするほどに予約が入るのだ。  何の取柄も無い俺は、マッサージ室に篭る事となった松井の代りに受付に座るだけの置物となっている。  松井を連れてきたのは甲斐だ。  甲斐には実は商才があったのかと、俺はなんだか悔しいと歯噛みし、自分の鬱屈した思いを消せるように幸せそうな一角に目線を映した。  飯島によって自分の指先が芸術作品に変わったと、客の歓声の声が上がったのだ。  彼女は自分の両手を窓からの光に翳すように持ち上げて、光が加わってこってりと輝く様に、さらにうっとりとしている。  それもそうだろう。  ここからでも彼女の爪の先で、美しい青が輝いているのが見えるのだ。  青い青い、透明で美しい、南国の海の色。 「克哉」 「姉さん」  姉が耳元で囁いたかのような錯覚に陥り、俺はそこでその幻聴を逃したくないと目を瞑った。  目を瞑ったそこに見えるのは、透明な海の底。  母と姉と三人で行ったサイパンで、俺の希望通りに潜水艦に乗り、そして、潜水艦が沈んだ深い海の底では光が届かないために色が一切無くなることを知ったのだ。  あんなに青く輝く海の底であるのに、サンゴも、沈んだ船も、魚たちさえ白い昔の写真の中の残像の様に変化した。 「かつや」 「姉さん」  真っ白なサンゴは百日紅の花々のように波間に揺れ、その中に白い服の、そうだ、白いキャミソールドレスを着た姉が立っていた。 「姉さん」  彼女の髪は風に舞うように海中を漂い、彼女は気持ちが良さそうに顔を海上へと仰向けた。 「かつや、うごいて」  色を失っていた彼女の唇にぽっと朱が灯り、するとするすると彼女が色を取り戻していく。  美しい陶器のような肌に、トルソーのような細く完璧な体。  張りのある胸の頂は、薄紅色に染まっている。 「カッチー」  え? 「カッチー、変な顔しているとお客が逃げる。そして、頑張っている功労者のあたしにお茶を淹れる」  マッサージルームから松井が出て来ていた。 「変な呼び方をしないでくださいよ。お客の前で」 「呆けているあんたの代りにあたしがお会計して、人形状態のあんたに脅えるお客を、あ、た、し、が送り出しました。客はもう一人もいないよ」 「ごめんなさい。直ぐに淹れてきます」 「よし」  受付の椅子から立ち上がると、確かに体が妙に強張っていた。 「どうした、カッチー?」 「何でも無いです。単なる運動不足かな」 「あたしの上で運動させてやろうか?」 「ななななな、げ、下品な!」 「ははは、カッチーって可愛い」 「な、松井――」  そこでバンっと栄養相談室のドアが大きく開いた。  俺は当たり前だが仙波に脅え、仙波は俺ではなく松井を大きくにらんだ。また戦闘に! 「カッチー、お茶」 「あ、はい」  仙波は俺を見ることも無しに再び部屋に戻っていった。  俺は彼女達のどちらかを選ばなかったばっかりに最下層民に格下げされたようで、今や完全にお茶汲み小僧の扱いである。  まぁ、最初から警察組の誰も俺をオーナーと思っていないが。  カッチー、水戸井、そこのガキ、だ。  うわ、甲斐がやっぱり酷い奴だ。  そんなパシリにされる日々の中、ただ一人ネイリストの飯島だけが俺を「オーナー」と頑なに呼び続けているのも不思議なものだ。 「比呂さんはハーブよりも紅茶の方が良いのですよね」 「今日はハーブティーで。オーナーの淹れるハーブティーはあぐりちゃんと同じ味だから好きよ」  俺はハハハと笑って誤魔化した。  凄く細かく計量してお茶をブレンドして作っているのは仙波だ。  彼女は母のレシピノートから作ったブレンドを、さらに自分なりに改良して一番良い味になるようにブレンドし直した功労者である。  母の頃とはまた違う飲み易く薫り高いハーブティーが客には好評で、包装されたブレンド茶が飛ぶように売れている。  ほんの三十グラムの一袋で、三千円とはぼったくりだとも思うが。 「比呂さんもオーナーじゃない呼び方で良いですよ。何か、俺はオーナーって感じじゃないですから」  飯島は俺の大好きな優しい微笑を見せると、俺の提案に従って俺の想定外の事を口にした。 「じゃあ、カッチー。私もそれで呼びたかったの」  ハテ? あれ? 克哉くんとかはナシ?  どうして皆さんカッチー一択?  俺は首をかしげながらスタッフルーム兼キッチンへと向かった。  冷蔵庫から蒸留水を取り出して薬缶で沸かして、暖めておいたポットに注ぐ。水道水はもってのほかだが、ミネラルウォーターはミネラルでお茶の味を殺すから蒸留水なのだ。  そして、一番注意しなければならないのが、葉が開く時間。  仙波のブレンドは母よりも繊細な葉が多い。  余り長いとハーブティ独特のエグミが出るのだ。 「いい香りだ。さすが仙波さん」  トレーにカップを載せて持っていくと、受付前のソファの一つに女性が座っていた。新規の客が居たようだと、彼女に俺用のお茶を渡し、それから飯島に渡し、受付の松井の所に置く。 「カッチー。お前は仙波にお茶渡したらしばらく部屋から出てくるな。仙波にはあたしが言っていたって伝えておけ」  ボソッと耳元で早口で囁かれた。  俺を仙波に手渡そうとは、松井は何を考えているのだと松井を見返したら、彼女は笑顔を作ってギロっと俺を睨むだけである。  俺は初日の秋吉のことを思い出し、かしこまりました、と彼女に答えた。
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