十六 二人だけの夜道の理由

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十六 二人だけの夜道の理由

 暗い夜道、相変わらずのTシャツにカーゴパンツ姿の甲斐の後姿を追いながら、警察には見えないと心の中で呟いた。  そういえばこの人から階級も所属も教えてもらっていなかったと、俺は気が付いた。だが、それもどうでも良い事だと思い直した。  俺は怖いのだ。  母が消え、姉の不幸を聞かされた。  それでも甲斐が作った箱庭に設置された松井と仙波、そして俺の思い出の世界の住人の飯島に囲まれているのだ。  夏休み前はスマートフォンを解約してガラケーに変えて、ノートパソコンを持ち歩いて学校へ通った。  飲み会もサークル参加も全てやめた。  アルバイトを探し続けたのだ。  そこで友人からの気軽なメールが無くなり、アルバイトも見つからないまま母が消え、とうとう金も底をついた。  金は戻ったが、俺には誰も残っていなかった。  俺は松井と仙波にからかわれて嬉しいのだ。  情けない事に、俺は母や姉を心配だと言いながらも、このままの状態が続くことを望んでもいるのだ。 「水戸井、夕紀子はな、相当な玉だったんだよ。後先考えないから何でも出来たんだろうけどね。巻き込まれた周りの人間はたまったもんじゃないよな」  甲斐の言葉に俺は立ち止まり、甲斐もそれに気づいたか立ち止まり、俺に振り返って顎で「進め」と促した。  俺がのそのそと歩き出して彼の隣に並ぶと、彼も再び歩き出した。 「腐れ玉を夕紀子に渡していたそのものを彼女は脅していたようだね。あれは相当の高値で売れるが、卸元にも相当の金を納めなければいけないからね。あれを飲み続ければ人を喰らわなくても艶々で居られるなら、高くても買うだろ」  甲斐は抑えた声で俺にだけ聞こえるように話し続け、そして、一呼吸置いて嫌そうな声を出して続けた。 「製造法を探っていたんだよ、彼女は。彼女は三瓶をその大元から盗み、一瓶はお前の母親に渡した。あぐりが本来の値段以下で販売すれば卸元が接触してくると踏んだんだろう。そこであぐりが殺されればそれを映像証拠として脅しのネタにして、交渉だ。製造方法かあるいは、いつでもそれが手に入る幹部への昇格。尋問して吐かせた俺が言うのも何だが、彼女は金と自分の美貌しか考えていない考えの浅い女性だったよ」  俺の足が再び止まった。  母が殺されることが夕紀子の目的? 「ありえないですよ。彼女は浮ついていたけど、俺や姉にも優しくて。母とは姉妹のように仲が良くて」 「だから怖いんだよ、死人化は。体が死んで心も死ぬのか、人喰いが人格を変えるのか。ただの死人化と違って腐れ玉は人肉そのものだから死人化した人間が既に人喰いだ。残虐な化け物になるんだよ」  吐き捨てるように甲斐は言い捨てた。  口にするのも口が汚れるという風に。 「それでな、夕紀子と違ってあぐりは賢かったからな。上手く立ち回って卸し先になったんだ。販売にノルマは無いからね。あぐりは夕紀子から渡された瓶代を卸元に支払っていく事を契約したんだ。但し、卸元にあぐりから接触する事は出来ず、卸元から使わされた人物とだけの取引でね。彼女は卸元の正体を知る事ができなかったんだよ」 「甲斐さん達はそれで卸元の正体を探っていると」 「そう。ついでに死人化して人を害する奴の捕獲もね」 「いつもあんな乱暴なやり方で捕獲するのですか?」 「あいつらは死人だろ」  仙波もそう言っていたな、と思い当たった時、俺達はコンビニの前にいた。 「お前はビール駄目なんだよな。酒が駄目なら、コーラにでもするか?」 「ビールの味が駄目なだけで、俺は蒸留酒は平気です。ウィスキーやウォッカの方が好きなんですよ」  甲斐の大きなチって舌打ちに俺は大笑いした。  何ヶ月ぶりに声を出して笑っただろうと、白けている自分が後ろにいるような笑い方だったけれども。  シュンと自動ドアが開く。  甲斐は冷蔵庫ではなくすいっと週刊誌のラックの方に歩いて行き、あろうことか成人雑誌の前で立ち止まり適当に雑誌を引き出すと、ぱらぱらとページを捲りだしたのだ。 「あ、ちょっと、甲斐さん。恥ずかしいから止めて下さいよ」  甲斐から雑誌を取り上げようと手を伸ばし、そこで俺は動きが止まった。甲斐が静かな目で俺を見下ろしているのに気づいたのだ。 「お前は、こういうのに興味が無いのか? それとも無くなったのか?」  彼が俺を松井達から引き離したのは、俺こそ尋問したかったから?  彼は雑誌をラックに片したが、俺の返事を待っているのか無言のまま俺を見つめ続けている。  俺は急な甲斐の質問に驚きと居た堪れなさで、成人雑誌の並ぶラックに視線を泳がせた。  漫画絵で、幼い顔の女性が巨大な胸をさらけ出したもの。  水着姿や下着姿の女性の表紙。 「お前は男の方が好きとかさ」  ぷっと、思わず噴出した。 「なんだよ、俺は少し真面目に聞いているんだよ。お前の精神状態を知りたくてね」 「成人雑誌に興味があるのとないので、何がわかるんです」 「エロってさ、生そのものだろ。お前は特にエロに関しては恥も外聞も無いお年頃のはずなのに、そんな素振りが無いしさ。まぁ、あの二人じゃ勃たないのもわかるけどね。でもさぁ、それで、本当のところはお前はどうなんだよ」  甲斐の台詞に、俺は彼が死人とやらを捜索する警察だと自称していた事を思い出した。  俺も死人化していると心配していたのだろうか。  もう一度ラックの隅から隅まで、立ち並ぶ成人雑誌の表紙を眺めた。  無いな、という、いつもの頭と体の解答だけだ。 「ここに俺の好みは無いですね」 「お前はSMやロリ系か?」 「どうして話がそっちに行くんです」 「じゃあ、何だよ」  成人誌の前で俺の性癖を聞くまで解放しないと目力で迫る刑事に、俺はどうするのがベストだったのか未だにわからないが、なぜかその時、俺は甲斐に自分の内緒を語っていた。  実は誰にも話したことのなかった自分の恥部そのものを、だ。 「姉の裸を見てしまったんですよ。中坊の俺には十八歳の姉の体が強烈で、アレ以来どの裸を見てもどうでもいいって言うか。そんな気が起きないというか。姉以上に美人で好みの表紙じゃないと手が出ないというか。――弟が姉に発情するなんて変態ですよね」  ブフっと破裂音がして甲斐を見上げたら、奴は小刻みに震えて笑っていた。 「あんた酷いよ。真面目に聞くから真面目に答えたのに」  甲斐は俺に背を向けて笑いながら、酒の置いてある冷蔵庫の方へ歩いて行く。俺は助平な雑誌売り場に取り残され、ぼんやりと遠ざかる甲斐の後姿を眺めていた。  甲斐の後姿は、脱衣所のドアを大開にして体を拭いていた姉の姿に変わっていた。  幼い頃に風呂に入れてくれた美奈子は俺にとって母親同然の感覚でもあったのに、その若く美しい裸体は彼女が母親ではなく、彼女が若い女でしかないと俺の脳に認識させたのだ。  雷に打たれたように全身が硬直した俺は、動けないまま間抜けにも姉の裸を一心に見つめ続けていたのだ。  もう頭の中は真っ白だ。  俺の気配に気づいた美奈は、俺にゆっくりと振り返る。  怒るか慌てて騒いでくれたなら俺は救われたかも知れないが、彼女は意地悪な生き物だ。  グッと胸を突き出すようにポーズまでつけて悠然と微笑み美しい裸体を見せ付けて、それから俺に近付くと、初めて聞いた艶かしい声で俺の耳元に囁いた。 「サービスはここでお終い。坊やはお部屋に帰りなさい」  俺はふわふわと美奈子の命令どおりに部屋に帰り、その後に思わず自慰までしてしまった情けない子供だ。  勿論、最後のこの部分は誰にも言えないし、俺は墓場まで持っていく。 「おい、水戸井、いい加減助平雑誌から離れてこっちに来い!」  コンビニ中に響き渡る声でやってくれた。 「自分で助平雑誌の場所に連れ込んでおいて、その仕打ちは酷いですよ」  俺は自分比で大きな声を出しながら、甲斐の元に向かった。 「ほら、好きなの選べ。シスコン」 「あんたに話すんじゃ無かったよ。この助平親父」  ハハハと笑い声を上げる甲斐を尻目に、俺は冷蔵庫の下の段にあったハイボール缶を取ろうと屈んだ。すると、酒缶が並ぶ冷蔵庫の重低音に、開店初日に目にしたあの機械の映像が現れた。  血液透析の機械によく似たあの機械。  俺の脳裏に浮かんだのは、横たえた身体中にパイプをつながれてあの機械と繋がれてる母の姿だ。
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