十八 この木何の木

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十八 この木何の木

 警察は本気で捜査のとっかかりが一つも無かったようで、昨夜の会合で夕紀子の学生時代の作品について俺が語ると、甲斐はすぐに夕紀子の母校に行ってその作品を調べることに決めた。  翌日に甲斐に連れられて三茶から電車を乗り継いで辿り着いた大学は、青々と緑豊かな広大なキャンパスを持つが、美術大学の名にふさわしい外見をしているわけでもなく、大学の建物は普通の自分の通う大学と似たようなビルに配置だった。  あまりにも普通過ぎて、キャンパス内に入って時々すれ違う人達がスモックを着用していたり、髪の毛が不思議な色分けで染め上げられている事に、あぁ美術系だと、俺は安心したくらいである。 「甲斐さん。俺はロンドンに在るエイリアンの卵みたいな形のビルとか、港区の旧化粧品会社の三角形のビルみたいなのを想像していましたよ。普通の大学じゃないですか」 「お前は美術系大学に恨みでもあるのか?」  大学訪問の為に刑事スーツ姿の甲斐が、縁起の悪い黒のリクルートスーツ姿の俺を見下ろした。  なぜ縁起が悪いのかと言えば、俺はこのスーツを着て面接に行き、悉く面接を落ちているというスーツだからである。 「恨みはないですけど、建築と美術は深い繋がりがあるでしょう。建物にはもっと拘りがあって欲しいなって思いませんか」  甲斐は返答もせずに俺の首根っこを掴んだ。約束していた事務室へとサクサクと足を急がせたかったらしい。  朝一で無駄足にならないようにと事前に連絡を入れたらしいが、夕紀子の作品は既に倉庫の方に移動されていた。  倉庫ならば職員の同行がなければ入れない。  事務所で甲斐が挨拶をすると、若い美術講師が自分が案内すると申し出てくれた。 「大きいですからね。新しい卒業生達の作品も飾ってあげたいからと彼女から申し出されたのですよ。私は彼女の学生時代を実際に存じ上げませんが、来校された際にお会いして、なんと才能の満ち溢れた人だなと感嘆いたしました次第で」 「なんと美貌の人なんだろう、だろ」  甲斐が俺に囁いた声が聞こえたか、ぽっと顔を赤らめて俺達を倉庫の方へ案内する美術講師は人の良さそうな印象だった。  確かに夕紀子は人当たりが良く、その美貌もあって誰をも魅了した。  そして、母の友人で相棒だった「早苗さん」も、そういえば綺麗な人だったと思い出した。  実際に俺が覚えている姿は、美貌の美の字も無かったが。  母が成功して二子玉川の高級マンションに三人で優雅に暮らしていた頃、母と喧嘩別れしたという彼女が押しかけて来た事があったのだ。  オートロックのエントランス前で、外食帰りの俺達三人は突然起きた罵り声をぶつけられた。  何事かと俺達家族が振り向くと、顔は綺麗だが老いてみすぼらしい女が立っていたのである。  それが早苗だった。  俺は振り向いた時点で誰だか判らなかったが、耳元で姉が「早苗だ」と呟いたのが聞こえて知ったとそういうわけだ。  早苗は俺の大好きだった父を、幼い俺から奪った女だ。 「この糞女! あたしから全部奪っていい気になりやがって!」  そうマンションの入り口で叫ぶ彼女に、母ではなく俺が言い返した。 「親父を俺達から奪った糞女はお前だろ」  彼女はハハハとあざけるような笑いかたをしてから、母に掴み掛ろうと突進してきた。 「知っていて仕組んだくせに!」  意味が我にはわからない言葉を叫び、だが、彼女は母に指先一本触れることもかなわずに、マンションの警備員に取り押さえられていた。  その場面での家族で唯一の男の俺は、早苗の暴力から家族を守るどころか、母が庇うようにさっと俺の目の前に出た事に唖然とし、体がキュッと引き寄せられたと見れば姉に守られ掴まれていて、完全に女達に守られている構図の役立たずだった。  警備員に拘束された早苗の姿を一瞥して母はエントランス内へと入って行く。俺と姉も母に続くが、ふっと呟いた母の声が聞こえた。 「馬鹿ね。わざわざ言いに来る事で相手を喜ばせているとも知らないで」  あぁ、母は怖い人だった。だからこそ成功したのだろう。  父は母と別れた後、遊びだったからか早苗の所に行かなかった。  それでも早苗の事業は母に完全に潰されたのだと、後で姉が教えてくれたのである。 「ママは凄いわ。完全に早苗をこの業界から追い出したの。だからね、克哉は何かあったら私やママを頼るのよ。克哉は私達の大事な子供だもの」  長い睫毛に囲まれた印象的な瞳が意地悪そうに輝く。  何て綺麗で、意地の悪い生き物だろう。  俺は魅了されながらも、彼女に反発した。 「中学生の男子を子ども扱いって、ババアの証拠だね」  姉は子供のような笑い声をたてると、俺を自分の子供のようにぎゅうっと抱きしめたのだ。  俺は止めろと言いながら、姉の腕に包まれたままでいた。 「おい、それでこの変なオブジェに隠しスペースはありそうか?」  甲斐の声で思い出を振り払いオブジェに向いた。  それはただの命の木。  繊細な金属で出来た幹と枝にキラキラとした小さな金属の葉っぱが揺れるという、美しいが高さが三歳児ほどあって幅が幼児用傘を広げたほどあるものだった。  片付けて欲しいの夕紀子の申し入れは、実は大学側も嬉しかったのではないかと思うほどの邪魔なオブジェだ。 「コレは上の傘部分と幹部分は外れる仕掛ですか?」 「でないと重くて運べませんよ」  俺の質問に講師はハハっと笑いながら答えた。  その横では講師が止める間もなく、勝手に甲斐が上部の傘部分をザっと引き上げて外していた。幹の中は空洞で、底の方に鍵穴が見えた。  甲斐はさっとあの鍵を取り出し、そしてそこに差し込んで回した。  やはりそこの鍵だったのかという思いと、簡単すぎるという呆気なさだ。  簡単すぎるのに、どうして警察は気が付かなかったのだろうか、とか。 「警察呼んで」  鍵を回していたはずの甲斐の初めて聞いた情けない声に、俺はかなり驚いていた。  倉庫内には、ハハハと甲斐のやるせない笑い声までも響いている。 「何か、何があったんですか?」 「いいから、水戸井。いや、カッチー様。俺のスマートフォンでよっちゃんに電話して、爆発処理班が欲しいなぁって伝えてくれる? この木の台座が全部火薬だったら僕達お陀仏だからね」  俺はハハハと彼と同じ情けない声を出した。
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