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一 放流された金魚よりも下
全てがどうでも良くなるのは仕方が無いだろう。
清水寺の舞台から飛び降りて、そのまま無残落下死だ。
結果などはなんとなく俺自身判ってはいたが、それでもささやかな望みを抱いての志願でもあったので、実は明らかとなった結果には酷く落ち込んでいる。
今まで申し込んだ仕事の中で、俺が一番やりたいと思った内容でもあったのだ。
それに今回はアルバイトではなく社員としての面接だったのである。
あぁ、一番最初に受けたアルバイトが通っていれば、今の俺はこんなことせずに軽井沢かどこかの避暑地で明日の心配なく夏休み中働けていただろうに。
目黒川緑道のベンチに腰掛て、先行きの見通しが亡くなった俺はぼんやりと池の鯉を眺めるしかなかった。電車に乗る金も節約で、渋谷から246を歩いてきたのだ。
池尻大橋に辿り着き、246から緑道に入るとすぐに人工の小川の池のようになっている所があり、そこには屋根の付いたベンチがあった。周囲を見回すと緑道沿いに植えられた草花が夏を謳歌し、不思議な形の白い花びらを持つ花を咲かす木が点々と植えられているのも目に入った。
その木を見て、母は百日紅が好きだった、と思い出す。
「さるすべりって酷い名前だね」
「サルが滑っちゃうツルツルの木でしょう」
母は夏が余り好きではないから、百日紅でも白い花を咲かすものが清涼感があって好きだと言っていた。
「長ーく夏中咲いているから百日紅と書くの。ほら、あそこに咲いている赤紫もさるすべりよ」
記憶の中で母が指差すと、そこに塾帰りの姉が微笑んでいる。
姉は白い花が似合う母と違い、毒々しい色合いの花に彩られても遜色のない美貌を持っていた。
そんな姉は、常に俺に対して最高の笑顔を向けてくれるのだ。
「あぁ、姉さん。母さん」
幸せだった子供の頃の記憶を振り払うように人工池に再び視線を動かした。そこには黒い鯉が何匹か泳いでいたが、誰が放したか大きな金魚が一匹だけ混ざっていた。
「いいなぁ、こいつは他と違うのに溶け込めて」
俺はアルバイト面接で悉く失敗しているのだ。書類ではなく面接で、だ。落とすならば書類の時にして欲しい。面接で落とされるって「お前という人間が駄目」と突きつけられている様で、書類で落とされるよりも辛いのだ。
今日もそうだった。
「君はまだ学生でしょ。ウチは学生を雇っていないんだよ」
じゃあ最初から俺を呼ぶなよと、心の中で罵倒しながらも、面接官として俺の前に座るにこやかな男に一縷の望みをかけて言ってみた。
「雇っていただけるなら、大学を辞めます」
目の前の面接官は、出ておいた方が良いよ、と苦笑した。ウチはそんな、一生勤め上げるって程の会社じゃないからね、とも。
一生なんて必要ない。
ほんの、数年。
一年でも良い。いや、数ヶ月でさえ良いのだ。
俺には生き延びるための「金」が今すぐ必要なのだ。
簡単な話、親が破産して失踪したのである。
破産については母と協力し合って凌いでいたので覚悟はしていたが、三月前に電話一つで姿を消すって無いだろう。
「ごめん」
何それ?
女手一つで俺と姉を育て上げた母親の会社がとうとう潰れたのだとそれで理解はしたが、母がその一言の後、しばらく無言が続いたその後にブチっと通話を切り、それっきりになるとは予想外だ。
彼女は俺にベタ甘の、「子離れしろ」と周りに囃されるほどの母ではなかったか?
俺は親の帰って来なくなった2LDKのマンションの一室で途方にくれるしかなかった。
破産しかけて豪邸を売って移ったこの部屋は、母が父と離婚した時に分捕ったものらしく、名義が俺のまま売られずに所有していた昔の住まいだ。しかし、家賃は要らないが管理費や修繕積立金がマンションには掛かるのだ。固定資産税も。
甘やかされて育て上げられた僕ちゃんだったこの俺が、成人に成った途端にこの仕打ち。
「どうする? そこ売ってお姉ちゃんの所に来る?」
母の失踪を確信した六月に姉に告げると、姉はすぐさま自分の所に来るようにと俺を気遣ってくれた。けれど、五つ離れた姉は二年前に父方の従兄と結婚して地方にいる。転勤族の夫について地方を点々としている彼女の家に居候をするのは気が引けた。
「売りたくても売れないし、母さんが学費は払っておいてくれたみたいだから、今年一年は一人でだけ頑張ってみる。アルバイトもそのうち見つかるだろうし」
音信不通の母は、四月に学費を一括で入金してくれていた。
さらに、三年前に越してきたヤクザ事務所のせいで、このマンションの価値はさらに駄々下がりしたと引っ越して来た日に下の階の住人に教わったことも思い出してしまった。
「久しぶりねぇ。どうしたのよ、こっちに戻ってきて。良いマンションに住んでいるんでしょ。何かあったの?」
一階に住む岡部は十年前と同じくゴシップ好きの厭らしい人である。男のような短い髪に小さい目をした老年に近い彼女は、小柄な小太りで人が良さそうな外見だが噂話が大好きだ。
以前に住んでいた頃は、彼女は特に母に絡んでいた。
再び母に絡んで嫌がらせが出来ると考えたのか、彼女は本当に嬉しそうないやらし顔で引っ越し作業中の俺達に突撃してきたのである。
「俺がそろそろ一人暮らしがしたいって母にお願いしたんですよ。そしたらしばらくは監視だって付いて来ちゃって」
俺は咄嗟に嘘をつき、すると母がそれに乗った。
「可愛い息子に変な虫がつかないか心配でね。娘が結婚したら寂しくてねぇ」
岡崎は母の店の噂を知っているようなニヤついた顔をして聞いていたが、知っている? と別の話を切り出した。
「二階のお宅の反対の角部屋、ヤクザが三年前から住み着いちゃったのよ。」
「え、やくざ?」
俺たちの食いつきに気を良くしたか、岡部はニンマリと厭らしい笑みを浮かべて声を潜めて語り出した。
「引っ越してきたばかりのときは凄かったわよ、目つきの悪いスーツ姿が数人も出たり入ったりで大騒ぎして。あれは絶対ヤクザよ」
自分も住んでいるマンションだろうに、岡部は引越し初日に俺達が暗い気持ちになるようになのか、張り切ってもう一つのゴシップも打ち明けてきた。
「あいつは自分の奥さんを売ったのよ」
「またまた、ちょっと噂にしては酷いんじゃない?」
母は少々イラついた声を出した。
この人に俺達が後でどんな噂話を立てられるか想像して嫌気が出てきたのだろう。
母が父と離婚した後、父が母に苛められて追い出されたのだと岡部が近所中に噂を立てたのだ。
「この目で見たんだから確かよ。最初にあの奥さんが挨拶に近所を回っていたからね。そしたらある日、仲間がワンボックスカーに彼女を連れ込んで走り去って。彼は子供みたいに情けなく玄関で泣いていてね。それで声をかけようとした私に「くそババァが」って。絶対、あれは借金の形に奥さんを売ったのよ」
「ただ離婚しただけじゃないんですか?」
俺もウンザリした声を出したら、キヒヒヒと厭らしい声を出して笑い出し、笑い方通りのヒヒにしか見えない醜さとなった。
「四階の北島さんが、奥さんがAVの人だって言ってた。綺麗だったからねぇ」
「ご免なさい、部屋の片づけがあるから」
母はぐっと俺の腕をつかむと岡部から身を翻し、昔住んだ懐かしい部屋へと共有廊下をぐんぐんと進んでいった。
「あのババァ、本当に嫌な奴」
「四階の北島と良い勝負で嫌な奴だよね」
四階の北島は一番広い部屋で最上階に住む人だ。
だが、四階建ての低層マンションで偉い低いはあるのだろうか。
二階の2LDKでしかない我が家は北島にするとカーストの下だ。
反対に大きな専用庭がある一階の3LDKの岡部は自分の次に上の人で、彼女達はカーストの下と思われる人々を事あるごとに監視して噂話に花を咲かせていた。
実際、角部屋で窓はあっても安普請の建物の常で夏は熱く冬は寒く、おまけに広い専用庭も無い二階は一番安い階だ。その為我が家とヤクザ家の2LDKの部屋は販売価格ではマンション内で一・二を争う安物件であるのは否めない。
つまり、北島と岡部にすれば、我が家は最貧民となるのである。
「ここ売って、別の所に引っ越そうか?」
「あなたのお家よ、いいの?」
「いいよぅ。あのババァ達のいない新天地を目指そう!」
俺の言葉に母は笑いをはじけさせ、俺達は引越し初日に関わらず次の新天地に思いを馳せて引っ越し祝いをしたのが半年前だ。
なのに、新天地に母だけが行ってしまった。
鞄から水道水を入れただけのペットボトルを取り出して口に当てた。鞄の中には公共料金や税務署からの固定資産税の請求書が入っている。金が少しでも入ったら使う前に入金しようと持ち歩いているのだ。
今の俺には、物凄い大金。
資産価値が下がったのだったら、固定資産税を半額にしてくれよ!
「後期学費分の六十万だけでも、現金で手渡して欲しかったよ」
お金のありがたさを今現在ひしひしと感じている俺は、そっとどころか涙が留めなく流れ出していた。
今までアルバイトもした事が無ければ、友人知人づくりも頑張った事のない俺だ。
俺が人好きするからでなく、それは母が社長だったからだと、母の破産を聞いて蜘蛛の子を散らすように消えた事で身に染みている。
まともに友人を作った事がない俺に、まともな社会活動も出来るはずもなく、従って面接で悉く落とされてアルバイトが見つからないのは当たり前の結果なのだろう。
「半年前からアルバイト探しても見つからないって、俺はそんなに駄目な奴なんだろうか。書類は通って面接時に駄目って、そういうことだよね」
ちゃぷん。
鯉が跳ねた音に反射的に目線を動かしたが、跳ねたのは鯉ではなく金魚だった。
尻尾が蝶々の形の流線型の大きな金魚は、生ぬるいだろう緑道の造成池を、それでも精一杯泳いでいた。
あれも育てられないと放流された奴なのだろうか。
俺のように。
「俺も金魚だったら良かったのに」
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