二十五 久方ぶりといえる朝

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二十五 久方ぶりといえる朝

 同居一日目の朝は最高だった。  朝ご飯だ。  半熟のおいしそうな卵焼きに、サラダにシリアルボウル、そして紅茶が淹れてあった。二十四時間営業のスーパーに俺が寝ている間に飯島が走ってくれたのだろう。 「比呂さん、俺、生きてきてこんな朝食は久々ですよ」  実は初めてかもしれない。  自然食品の店で頑張る母親のために、俺と姉は冷凍食品とファストフードで凌いでいた。母が家で作る時もそれなりにあったが、きっちりとした栄養を考えた料理のためか残念ながら見た目は良いが味気ない。  そして姉は料理があまり好きな人ではなかった。  家事が好きじゃない人が、どうして結婚を急いだのだろう。  そんなに高瀬が好きだったのか? あんな図体がでかいだけの男で、借金王だったのに。 「いやー、本当に朝ご飯って感じだよね」 「どうして甲斐さんがウチで朝ご飯を食べているのですか?」  彼はすっと左側の顔を見せた。  殴られたのか、左側が青く腫れている。 「傷害の口止めと賠償だね。暫く飯を食いに寄るから。当たり前でしょ」  甲斐は言う事を言ったらまた朝食に戻っている。  俺は飯島に振り返り、澄ました顔で関節を赤く擦り剝けさせた手で卵を口に運んでいる彼の姿に、くすくすと笑いがこみ上げた。 「そういえば、松井との婚約ってなんだったんだ?」  甲斐がからかうように聞いてきた。 「あの、今回の事件が終わったらあの店を閉めるんでしょう?そうしたら皆がいなくなるから寂しいなって言ったら、結婚してあげるって」  甲斐は、あぁ、と声を出し、閉めなきゃイイでしょ、と簡単に言った。 「閉めなきゃイイって、いいんですか?」  甲斐は飯島に振り返ると、いいよなと、なぜか飯島に聞いた。 「オーナーはカッチーですからね」  飯島が澄まして答えるが、俺はそのやりとりにホケっと呆けるだけだ。 「ちゃあんとね、出店許可もあるんだよって事だよ」  甲斐の説明に、俺は尚更に、え? だ。 「従業員がああなだけで、営業許可も全部真っ当な書類だから続けたければ続けられるよって事。仙波が抜けるだろうけど、松井はこのままフルで使えるし、給料は出るだろ?」 「出ます。驚くほど客足がよくて、あれはどうしてですか?」  甲斐がすっとフォークで俺を指した。 「可愛いお子様店長が持て成してくれるんだ。執事カフェな感じで受けているんだよ。飯島の親衛隊の口添えもすごいしな。それに、消耗品のオイルや化粧品の類はモニター商品として有名店が譲ってくれたものだからタダだしな。おまけにお前が出すお茶は、サービスじゃなくて今は一杯五百円取っているからね。施術しなくても客が入れば五百円は金が落ちる」  俺は金勘定しかしていなかった。  全部マッサージ代だと思っていた。  やっぱり駄目な俺。 「比呂さん、店の事を何も知らない俺って、オーナーだったんですか?」  飯島は噴出して笑い、目元の涙を拭いながら俺を褒めた。 「カッチーはお茶を淹れるの上手だからね。沙莉ちゃんが自分のブレンド茶をこんなに上手に入れられる奴はいないって、凄く絶賛しているもの。だから必死で優奈ちゃんから取り返そうと必死だったのよね」 「えー普通ですよ。葉っぱ見ていればなんとなく抽出時間がわかりますから。父が幼い頃に教えてくれたんですよ。それに、仙波さんが固い葉は細かく、柔らかい葉は大きめって、同じ時間で茶葉が開くように調節してブレンドしてくれているから、簡単においしく入れられるだけですよ。やっぱり、仙波さんが凄いですね」 「仙波が惚れるわけだよ。あいつは警察辞める勢いよ。この年増転がしが」  なんとなく、春が突然俺にやって来たらしい事は理解したが、肉食動物に狙われたウサギのような気持ちなのはどうしてだろう。  紅茶のおかわりを注ごうとポットに手を伸ばしたら、またもや飯島が泣いている姿が目に入った。 「比呂さん、どうしたのですか?」 「なんでもない。年を取ると勝手に涙が出るのよ」 「男の更年期障害の方が重いって言うよね」  バシッと甲斐が飯島に叩かれて、俺はハハハっと笑い声を上げた。  こんな朝は久しぶりだ。 「また、寝ぼけて。克哉はどうしていつもそうかな」  俺は食卓に突っ伏す。 「良いじゃん。今日テストなんだからさ、夜更しくらいするよ。眠い」 「こんな子供の弟置いて結婚しちゃうの心配よ」  俺はむくっと起き上がって姉を睨みながら本当の気持ちを軽く聞こえるように呟いた。 「じゃあ結婚するの、やめろよ」  あいつと結婚させなければ、姉は今でも生きていた。 「姉さんの所に来る?」  姉の言葉に俺は、頑張る、と答えた。  断った本当の理由は、嫌だから、だったんだ。  お腹の大きな姉を見ることも、その結婚生活を窺い知る事も。  半分母親のように俺を育てた姉が、俺はとても大好きだった。  姉さんが生き返るならば、俺は何だってする。 「水戸井、残念だがお前の姉の捜索は中止となった」  甲斐の言葉に俺は顔を上げた。 「中止で残念ってことは、姉さんは見つからなかったんですか?」 「車の落ちたところが丁度潮が引く海流が起きる場所でね。高瀬の遺体はかなりの沖で浮いているのが発見されたから、お前の姉ももう少し沖かと捜索範囲を広げたが見つからなかった。これ以上は無理との判断だ」 「姉さんは泳いでいるのかもね」  太平洋の青い海で両手を広げて浮いている姉の姿が浮かんだ。  黒い髪が太陽のように広がり、白い肌に長い睫毛の瞳は優しく微笑み、彼女はゆったりと泳いでいるのだ。 「美奈ちゃんは水泳選手だったものね。魚になりたいって七夕の短冊に書いて」  飯島が再び涙に暮れた。  彼は姉に嫌われていたのに、飯島の涙で姉の一面を思い出した。  俺が彼と話している姿を見つけると大いに怒り、時には俺と言葉も交わしてくれなくなるほどだった。  それでも俺は毎日母の店にいる飯島に会いに行き、纏わりつき、学校帰りの姉に捕獲されて怒られながら自宅に連れて行かれたのだ。  二年間も。  なんて馬鹿な子供だろう。  ある晩、姉が大声で母に叫んでいる声で俺は目を覚ました。  そっと部屋の外を窺うと、姉が母に食って掛かっている姿だ。 「あの人にあの店の出入りを許すなんて、ママはおかしいんじゃないの?」  姉はそう母に叫んでいた。  十三歳の女の子には、「おねえ」は受け付けなかったのだろうか。  そこまで自分を嫌う人にさえ涙を流すなんて飯島は本当に優しい人だなと、俺は彼にティッシュボックスを渡した。
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