二十六 誘拐

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二十六 誘拐

 松井は仙波と住み始めた。  仙波が俺を勝手に自宅を引き込む事を松井が阻止し、松井が家が無い事を泣き落としで俺をホテルに誘う事を阻止するためだと言う。  お互いに監視し合い休戦協定を結んだと見られる二人のルームシェアを飯島が知ると、彼は俺に恐ろしい事を囁いた。 「カッチーまでシェアされないように、気をつけるのよ」  冗談でも笑えないよと飯島を見返したら、彼の目は本気で心配している目だ。 「俺、喰われちゃうんですか? やっぱ草食って、ピラミッドの下なんですね。捕食される運命なんですね」 「お前等聞こえるように馬鹿な事ばっかり言っているなよ。」  小さい凶暴な方が眉根を寄せて凄んだ。 「心配なら比呂さんも一緒に楽しみましょうか? 人数も合うから丁度いいですしね」  挑むように大きい凶悪な方が冷たい空気を醸し出すと、飯島が俺をあっさりと捨てた。 「カッチー、若いうちには経験も必要かもしれないよ」  寄る辺の無くなった俺は甲斐に電話を掛けた。 「どうした?」 「二人がかりで喰われそうな時は、男はどうやって逃げるものなのですか?」  電話の向こうは一瞬押し黙り、人殺しの声で返答された。 「そんな機会が一生無い俺に喧嘩を売ってんのか? この野郎」 「え、ないんですか? エロ好きそうなのに」  電話の向こうが完全に沈黙してしまった。  俺は恐ろしくなって彼の気を解せる何かはないかと焦り、彼に聞きたかった事を尋ねる事にした。 「あの、気がかりだった事を尋ねてもいいですか?」 「――何だよ」  反応があった事にホッとして、勢いづいた自分がいた。 「あの、服を脱がせた時に靴下だけ残すって、甲斐さんの趣味ですか」  ぶつ、つーつーつー。 「どうした、カッチー、変な顔して」 「あ、松井さん。甲斐さんに靴下だけ残して服を脱がすのが趣味ですかって聞いたら、何も言わずに切られちゃって」 「お前は何を聞いているんだよ」 「はは。皆さんのお昼を買ってきます」  俺は店を飛び出した。  それが間違いのもとだった。  のどかな日常は凪のようなものだ。  平和で幸せを感じるからこそ、そこに嵐が起こると右往左往してしまうのだ。  これを奪われたくない、と。  結局失ってしまうのに、つい、諦めきれずにぎゅっと掴んでしがみ付いてしまうのだ。 「お母さんに会えるよ」  警察を名乗りバッジまで見せてくれた人を疑う人はいないだろう。  ましてや、知り合いの警察官の名前まで言ったのだ。 「外山さんがもう大丈夫だからってね。君が会いたいなら連れて行ってあげろって。特殊な医療施設だから、解るでしょ? 簡単に場所を教えられないし、いつでも連れて行けないからね。突然で悪いけど、今から大丈夫かな?」  巡査だというその警察官は、とても長身で細身の若い男だった。  薄茶色の髪にやっぱり薄茶色の瞳の彼はとってもきれいな顔立ちもしていて、それにドキドキしてしまった自分もおかしいが、そんな彼が俺に気安い笑顔を見せたことで安心したのかもしれない。  そっと腕を回して背中を叩いてくれた事は、初対面の相手には逸脱していると責める行為かもしれない。それなのに、俺はその手に反発心を抱くどころか失った友人達の何気ないそぶりを思い出してありがたく思ってしまったくらいだった。 「行けるかな?」 「行きます。母に会いに行きます」  俺は必要以上に勢い勇んで、自分からその警察官の車に乗り込む始末だった。車に乗ってから、「両親の名前を出して友達だと言っても、知らない人の車に乗ってはいけません」という大事なルールを思い出したが既に遅しだ。俺は今やゴトゴトとトランクの中で揺れていた。  急に車を止めたと思ったら、有無を言わさずに後ろ手に縛られての、これ、だ。  トランクの中で外山の言葉が思い出され、俺は恥ずかしさで一杯のまま揺られていた。 「よっぽど君が馬鹿な事をしなければ大丈夫」  よっぽど馬鹿なことをしました。  言い訳をさせてもらえれば、俺を拉致したあの男は血色のいい肌をしていたし、死人なんてモニター越しで見ただけなのでわかりませんでした。  それに、血色が良ければ見分けられるものじゃないはずだ。  その上、誘拐犯が乗るように薦めた車がパトカーならば、俺が疑わずに乗り込むのは仕方が無いのではないか? これは不可抗力に近いはずだ。  けれど、自分は先見の明はあったはずだと思い直した。  俺は外山に「ありがとう」メールを車に乗り込む前に打っていたのだ。  あと、お昼を買えなくてごめんなさいメールを皆に。  財布を取り上げられる時に一緒にガラケーも奪われたが、その時に誘拐犯がチッと舌打ちしたのは、俺のメールに気づいたからだろう。  ドラマだったら俺は危機一髪で助かるだろう。  現実だったら、拷問されて殺される?  俺は夕紀子の部屋と隠し部屋しか知らないが、浜野家の玄関から見渡せた階段の様子を思い出していた。  階段には階段上から血を流して川が出来たのかと思うような、赤茶色の血の染みの跡がばっとりとあったのだ。 「なんですか? これって、上はどうなっているんですか?」  俺が怯えて恐る恐る聞くと、甲斐が答えてくれた。 「どうもしないよ。二階の二部屋も血塗れってだけだ」  それ以上は甲斐は話さず、外山には聞いちゃ駄目だよオーラが出ていたので、俺はそれ以上を知りえなかったが、自宅に戻っても彼らはどうやって殺されたのか、どうやって殺されればあれほどまでの血まみれの状況が作れるのか、疑問が頭から離れなかった。  浜野家は六人家族だった。  夕紀子の年老いた両親に、夕紀子の弟夫婦一家が同居していたはずだ。  弟夫婦の二人の子供達は、今では小学生と中学生ぐらいだろう。  法事で会った際に、生意気で躾けのなっていない猿だと姉と一緒に陰口を叩いた子供達だったが、拷問されて殺されたなどとは考えたくは無い。  俺が死人の存在を受け入れられたのは、浜野家の惨劇の跡を見たからだ。  あれが普通の人だったら、どうして同じ人間を殺して痛めつけれるのだろうと、人以外のものを受け入れたかったのかもしれない。  人こそ、長い歴史の中で、数々の罪のない人を拷問してきたというのに。  トランクの中で考えているうちに、俺は拷問されるのだろうかと、これから何をされるのだろうかと、沸々とようやく不安が押し寄せて来た。  ヨーロッパの拷問のなかで、俺が絶対嫌だと思った拷問をされたらどうしよう。  底のない焼けた金属の籠に鼠を放り込むのだが、底は拷問される人間の柔らかい腹に押し付けられ、金属の籠には焼けた石を次々と放り込む入れ物が付いている。  つまり、鼠は籠の熱さに人間の腹を食い破って人間の体内に逃げ込むという仕組みだ。  生きたまま鼠に腹を食われる恐怖に、体内に鼠が潜り込む恐怖だ。  民俗学や風俗学は面白いが、ヨーロッパの文化歴史は「拷問史」を取り除いては語れない。  中世の魔女裁判に様々な拷問器具を編み出す事に熱中している権力者、有名どころでジル・ド・レイやエリザベート・バートリー。  拷問器具をコレクションしている貴族も居た。  拷問で得られた証言でないと真実味がないと考えられ、拷問される下々の者と拷問を指示する権力者。  踏みつけられた人々は悲惨なままだ。  拷問器具に無駄な煌びやかな装飾をする美学など受け入られるかと、俺はそれで煌びやかなヨーロッパ文化から日本文化、それも江戸時代の庶民の書いた文章を読む方向へ入ったのだ。  ミミズののたくったような文字を苦労して読み上げてみると、それが本当にくだらない日々の日記だったり、恐妻に苦労する武士の文章だったりと、くすりとさせるものが多いのは民族性だろうか。 「武士というものはどんなに奥方に辛い仕打ちを受けても、手を上げてはいけないのです。それが武士道です」  なんて内容の書付を読んだ時には腹を抱えての大笑いだ。  俺が大学をやめて就職しようと考えたのは、生活に追い詰められた最後だった。  母が消えた時点で退学すればまだ5月。学費は戻って来たはずだ。  それなのに俺は最後まで学生課に行かなかった。 「俺はやっぱり大学に通い続けたかったんだよな」  自分の事なのに、なんだか人事のように考えている自分に苦笑した。  それも過去形で自分の事を考えているのだ。  ガタンっと車が止まった。  バタン、バタンと車のドアが開閉する音が次々起こり、そして、再びエンジンが始動して俺はゴトゴトと再び揺れた。気持ちが悪い。トランクを開けられたら思いっきり吐こう。  殺されて喰われるのならば、俺は思いっきりゲロ塗れになってやろうと決意した。  不思議な事に恐怖が余り湧かなかった。  死への覚悟が出来たわけではない。  非日常過ぎて麻痺したのか、違うな、疲れたのだ、何もかも。  飯島のように何でも泣けるほど、俺には余裕がなくなっていたのだ。  生きたって戻らない世界ならば、俺はもうどうでもいいと思い始めていたのかもしれない。  せめて、痛みを感じないと良いな、と思いながら、俺は揺れるに任せていた。
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