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二十八 記憶
「パラドクスの自己増殖って何?」
その日も、近くに来たから、と夕紀子が我が家に突撃したのだ。
姉が結婚して出て行ったばかりの家はがらんとして物悲しく、俺は割合と嬉しい気持ちで夕紀子を迎えた。
「あ、勉強しているんだ? 克哉は歴史が好きよね。あんまり日本史も世界史もいい点取れていたとは聞いた事がないから、なんか不思議」
彼女はダイニングテーブルに出しっぱなしの俺の教科書やレポートを勝手に手に取ると、ぱらぱらとページを捲りながら俺を揶揄った。
「暗記作業が嫌いで覚えていられなかっただけでさ、資料集の資料や教科書の注釈部分を読んだり見たりは好きでね。昔の町の絵や写真って、そこにいたらどうなるのかな? って思うじゃない?」
「パラドクスの世界ね」
それで俺は彼女のテーマの意味を初めて尋ねたのだ。
夕紀子は長い睫毛の瞼をそっと閉じて答えた。
「同じ空間で同じ世界で、でも違うもの。同じようで違う世界に自分を置いていく」
「意味が判らないよ。だから、芸術?」
俺がからかうように彼女に答えると、夕紀子は俺をギュッと抱きしめた。
「ちょ、ちょっと、夕紀子さん。何! 何するの」
慌てて彼女を離そうと彼女の腕をグッとつかむと、彼女は俺を見ていた。
「その世界は克哉があたしの子供だったり恋人だったりもするパラレルワールドも構築できる。もしも、あの時って逆説を展開していくと、違う私がそこに存在する」
いつもと違う顔付きの彼女は、ハハハと軽く笑うと俺から手を離し、いつもの軽い感じで微笑んでくれた。不安を感じた俺をほっとさせるように。
「いつでもママって呼んでいいのよ」
「何やってんの」
俺はしゃがみ込んでいた。
そのせいで俺の腕を掴んでいた甲斐も、進む足を止めざる得なくなったのだ。
「俺、思い出して。夕紀子さんは、夕紀子さんのテーマって俺と親子に戻るって事だったんだって。彼女がこんなことして母さんを苦しめたのは俺のため? 俺のせいで母さんも苦しんで、夕紀子さんも壊れちゃったってこと?」
甲斐は俺の腕を離すと、バシっと強く俺の頭を叩き、首根っこを捕んで立たせた。
「お前はそれで、こんな事になるとわかった上で、それで過去に戻れたら、夕紀子をママって呼んであぐりを捨てるのかよ」
俺は甲斐を見返すしかなかった。
首根っこを押さえられて、俺は彼の顔を見るようにされているのだ。
彼の空いていた方の手が、俺の頬に触れた。
俺はびくっと反射的に体を縮めたが、彼の手は、いや、彼の親指が俺の涙を拭い取っただけだった。
「あの時どうしようかなんてな、考える時点でもう遅いんだよ。もう終わった事だろ。ぐずぐず悩みたいなら家でやれ。いいか、俺の仕事を邪魔するんじゃねぇよ」
俺の頬から甲斐の手は外れていない。
俺は頬に添えられた手がある今だからこそ、その手を掴んで叫んでいた。
「だって! だって! 一人だったら悩めないじゃないか! 一人でこんなことを悩めないじゃないか! 悩んだところで俺には誰もいないんだよ!」
俺の襟を掴んでいた手は外れたが、俺の頬に添えた手はどこにも行かなかった。
俺の襟を掴んで首根っこを押さえていた手は、今や俺の背中に添えられて俺を彼の身体に押し付けていた。俺は今は時間など無いと知っていながら、甲斐の胸に縋りついた。
実母だった夕紀子は死んでしまった。
姉はきっと死んでいる。
母には一生会えないかもしれない。
「終わったんだよ。全部さ。終わったんだ。そしてそれはお前のせいじゃないだろ」
俺はその通りだと認めていた。
俺は夕紀子を「ママ」と呼べない。
どんなパラドクスの中でさえ。
「いつでもママって呼んでいいのよ」
「夕紀子さんは、俺との親ごっこが好きだよね」
「私の子供だったら克哉じゃないわよ。私の子供だったら、ましろって名前ね」
「俺は克哉の方がいいよ。ママ」
俺はあの時に克哉にしかなれないと、ちゃんと自分でもわかっていたじゃないか。
俺は水戸井あぐりの子供の克哉にしかなれないんだ。
「わかっているよ。わかっている。でもいいだろ。少しぐらい泣いて騒ぐぐらい」
「だったら飯島に縋ればいいだろ。どうして俺に縋るんだ? 俺はお前を傷つけてばかりじゃないか」
「比呂は俺が泣いたら泣いちゃうんだよ。俺は泣きたいんだ! あんたは俺を傷つけるけどさ、あんたはそれでも俺に関わってくれるんだろ」
「――阿呆。関わるのは仕事上だからだよ」
甲斐は皮肉そうに顔を歪めて俺に言い放つと、俺を突き飛ばすようにして手放した。そして彼は身を翻すと、再びずかずかと長い木の廊下を歩き出した。
俺は再び涙が零れ、自分の頬に、そう、甲斐がいつも触れる頬に自分の手を添えていた。
何度彼は俺の頬に手を当てただろう。
「仕事で被疑者の涙を何度も拭いてんのかよ、あんたは!」
俺は駆けていた。
甲斐の背中を追いかけたのだ。
優しすぎて公私混同しているらしき刑事の背中を。
チッ。
舌打ちは甲斐であり、彼は急に立ち止まった。
俺は甲斐の背中に顔面をぶつけ、甲斐からは再びチィっという舌打ちがされた。
「ご、ごめんなさ」
「下がっていろ」
目の前に二人の男がゆらりと現れ、甲斐の進む前を立ち塞がったのである。
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