二 ヤクザにつかまり悪の道へ?

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二 ヤクザにつかまり悪の道へ?

 転機と見るべきか、転落と見るべきか、俺はヤクザ事務所にいた。 「お前、アルバイトを探しているならウチでちょっと働かないか?」  声をかけられたのはマンションのエントランスだ。  俺が郵便ポストの中を探っていると、持っていたコンビニ袋が突然破けた。その袋から落ちた履歴書を拾ってくれた親切な方がヤクザで、就職活動かい? と声までかけられたのだ。  岡部の眉唾話と馬鹿にしていたが、初めて顔を合わせた彼は、俺から見ても普通の職業の男性には見えなかった。  もう完全に俺の身体はきゅうと固まった感じだ。 「あの、いえ、あの。アルバイトです」 「で、決まったの?」 「いえ、あの」  そしてあの、働かないか、だ。  ヤクザは俺に甲斐(かい)甚平(じんぺい)と名乗り、俺はなんとなく嘘くさい名前だと感じた。  彼は俺よりも高く百八十以上は確実にあった。百七十の標準体型の俺には、嘘です、百七十無い痩せてガリの俺には、とても威圧感があり大きく感じた。  目はぎょろっとして彫が深く、眉もしっかりしている。頬骨が出て顎がとがった細い顔だが貧相ではない。悔しいがハンサムと言ってもいい顔だ。  そんな顔の三十代くらいの彼は、長身で細身だがダンサーのような筋肉質な体つきにグレーのTシャツにカーキ色のカーゴパンツ姿である。ヤクザの服装ではないだろう。だが、ヤクザだ。彼が纏うオーラは、己がアンタッチャブルだとしっかり主張している。  とにかく、「殺るぞ」オーラがビシバシだったのだ、俺には。  こんな怖い彼がニヤッと大きくスマイルマークのように微笑み、「ちょっと、来い」と俺を手招きすれば、「嫌」と断るスキルは俺には無い。  しかし、案内されたヤクザ事務所は、物悲しいとしか言えない部屋だった。  独身男性が住むような殺風景な部屋、と言うよりも、奥さんに逃げられた男の部屋、と言うのがよくわかる部屋だったのである。  食器棚にはペアのグラスや茶わんが並んでいるし、リビングダイニングに置いてあるソファに転がっているクッションやぬいぐるみは、確実に彼の趣味ではない。 「どうした?」 「いえ」  彼の部屋は俺の家と同じ間取りで逆なので、部屋の間取りは分かる。  ダイニングの右側二つの扉の向こうにある和室と洋室にも同じような妻がいた痕跡が残っているだろうし、もしかしたら左側の扉の向こうのトイレとバスルームにだって妻のものが残っているかもしれないと、俺は思い、同じように同居人が失踪しているヤクザに同情していた。  ただでさえ安普請の経年劣化がすさまじく、年々上がる修繕費や管理費など今後の事を考えると、売れるなら売り飛ばすに越した事がない物件なのに、俺もあなたも帰って来る人のために売れないね、と。 「適当に座って。麦茶でいいか?」  何もいらないので、僕を忘れてお家に帰してください。心の中でそう唱えていたのに、俺は口は違う言葉を唱えていた。 「麦茶を戴きます」  俺の身体は水道水以外のものを求めていたようだ。  彼は冷蔵庫から出した五百ミリのペットボトルをそのまま渡してきた。  五百ミリも一人で飲める!! 「あ、ありがとうございます」  ペットボトルを受け取りながら恐縮する俺に、甲斐は皮肉そうな笑みを見せた。麦茶に口をつけてしまった俺は、そこに薬でも入っているのかと脅えたが、彼が俺の正面に座ってきたことでどうでもよくなった。  だってほら、彼の威圧感が来た、来た、来た!  俺は胃がキュッとなって、忘れていたアレルギーが暴れてきそうな気になった。  ただの寒暖差で出てくる蕁麻疹でしかないが、体調を崩したりすると出やすくなる。今の俺は精神を崩しているので、多分、家に帰ったら絶対に出る。出るはずだ。 「我慢しなくていいんだよ。こんなのは!」  夜中に出て、結局我慢し切れなくて姉に「痒い」と泣きつくと、姉は怒りながらも痒み止めを真夜中でも探してくれた。  ああ、姉ちゃん!  姉さんの所に行けばよかった。  泣きつきたいよ。  どうして姉からの誕生日メールにも返信しなかったのだろう。  そうだ、あの日も面接に落ちて、姉にみっともなく縋りそうだったからだ。 「仕事は簡単な荷物運びなんだけど、大丈夫かい? おい、聞いてんのかよ」  甲斐の言葉にびくっとした。 「は、運び屋ですか?」  ハハハっと外見には似合わない若々しい笑い声があがった。 「面白いな、お前。まぁ、それに近い。ちょっと力仕事だからね、日当で一万円あげるよ」  俺は本当に追い詰められていたのだと思う。  一万円で簡単に悪の道に堕ちたのだ。 「いつからですか?」  俺は小学生でもわかる、ヤクザとのしちゃいけない契約を気づいたら交わしていた。  甲斐の差し出した書類もよく読まずに、彼が指さす所全部に自分の名前を書いていったのだ。 「水戸井(みとい)克哉(かつや)君ね。それじゃ、これから時間があるかな?」  時間は一杯ある。残念な事に。学校が夏休みに入ったばかりの友達がいない大学生だ。  俺は観念して頭を上下に何度か振ると、甲斐は含み笑いのような声で笑っていた。 「では、仕事場に移動しましょうか。お前は貴重品だけ持って付いて来て」  つまり、俺の鞄は人質ですね。  財布と携帯電話だけズボンのポッケに入れた。  帰って来れなくなるかもと考えたが、俺は森に捨てられるヘンゼルのような必死な気持ちで姉にメールをこっそりと打ったのだから大丈夫と、そう自分に言い聞かせた。 ――カイジンペイという人と一緒です。今夕方四時。  この事態になってスマートフォンを解約してガラホにしていて良かったと、ふた月ぶりに思った。ブラインドタッチできるのはガラケー型のガラホだけだ。  完全に大学の友人達と切れてしまったけどね。  無事に帰れたら姉に電話しよう。それで「馬鹿」と叱られよう。  どうか、無事に家に帰れますように。
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