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三十一 死者を運ぶワンボックスカー
「この車はどこに向かうのですか?」
「まず、お前を降ろせる近場の駅まで。一人で帰れよ」
四体の死体を荷台に乗せた車を運転する男は、俺の質問を知っていてかわしていた。俺は誤魔化される訳にはいかないと、再び質問を繰り返した。
今度はかわせない言葉で。
「後ろの四人はどこに連れて行かれるのですか?」
そこに母がいる気がするのだ。母は死人になっているんだろう?
甲斐は、教えるわけないだろ、と呟き、そして大きく息を吐いた。
「人殺しをした死人は専用の施設に放り込まれるんだよ。地下に人知れず作られた牢獄だ。死人を運ぶ生きた人間が来ない限り明りが灯らない、永遠に真っ暗な霊廟なんだよ」
母がそんな真っ暗な独房に一人で取り残される映像が浮かんだ。
彼女は常夜灯を点けていないと眠れない人なのに。
甲斐の左手が俺の髪をさらっと撫でた。
まるで、落ち込むな、という風に。
自分が甲斐の行為に、あ、と思う間に彼の手はひっこめられ、何事も無いようにハンドルに戻ったが。
彼の指は細く長いが、関節がごつごつとしているのに平べったい所もあり、それは何かを殴って来たからなのだろうかとぼんやりと眺めた。
今日みたいに死体を殴ってきたのだろうか。
乱暴のようで優しい不思議な手。
「水戸井、お前の母親はそこじゃないよ。人を襲っていないからね。別の施設だ。お前が聞きたいのはそういうことだろ。お前の母さんは人を殺していないよ」
俺は母が暗闇の牢獄にいない事にホッとはしたが、母に会えない事実を突きつけられた事にも気づいた。そして、廃校での質問が完全にはぐらかされて教えては貰えないだろう事にも。
「母は完全に死人なのですね」
甲斐は前を向いたまま運転を続け、やはり何も答えてはくれないようだった。
道が開けてきたから、俺が降ろされる駅も近いだろう。
時間が無い。
「会えないんですか? このまま俺を乗せて、母さんに一目だけでも会わせてくださいよ。俺を生んで無くても俺の母さんなんだよ」
キュッと車が停車し、乱暴な止まり方に俺は前にガクンと前のめりになった。
何か在ったのかと甲斐に振り向くと、今まで俺に見せことの無い顔をして彼は俺を見つめていた。
この表情は何だ? 辛い? やるせない?
彼は顔を背けて前方に目線を戻すと、サイドブレーキを乱暴に引いてエンジンを止めた。
「会ってどうするんだよ。相手は死体だ。死んじまったんだ。不老不死の腐った死体なんだよ」
「わかりませんよ、わかるわけないだろう。こんな狂った世界を急に教えられて、お前の母さんは動く死体になったから諦めろって? 会いたいだけって駄目なのかよ。俺は母さんに会いたいだけなんだよ」
俺を捨てて失踪していた方が良かった。
電気が止まったあの熱い部屋で、空腹で倒れて死に掛けた時に死んでいればよかった。
どうして無意識に風呂場に俺は行ってしまったのだろう。
あそこで死んでいれば、俺達は家族全員死人になれたかもしれないじゃないか。
「お前の母さんも、……あぐりもお前に会いたいってさ」
俺は甲斐の言葉に、此方を見ようともしない彼をじっと見つめた。
「あぐりのいる施設はね、老人ホームのような死人専用の収容所だ。職員の監視もあるけどね、施設内にいるのならゆったりと人間らしくは暮らせる。それなのにさ、あぐりは地獄に行きたいって言い出しているんだよ。あぐりの願いはお前に会うことだ。今いる施設から後ろの糞が入る施設に移送する時間だけならお前に同行させてやれる。規定でね。後ろの奴らが行く場所は死刑と一緒だからさ、移送中だけ、決められた所までなら逢いたい奴と同乗できるんだよ。お別れって奴だ。彼女はそれでも良いからって言うのだけどね。お前はどうだ?」
俺に会うためだけに、母は地獄に行くと決めたのか?
「駄目です。そんなの駄目です。俺は会えなくて良い。絶対、絶対にそれに同行しないからと伝えて! それで母を地獄に送ることは止めて下さい」
「お前は諦めるのか?」
甲斐は俺を見ていた。この人は諦めなかった?
――仲間がワンボックスカーに彼女を連れ込んで走り去って。彼は子供みたいに情けなく玄関で泣いていてね――。
岡部の言葉を思い出した。
三年前に甲斐の妻を連れ去ったスーツ姿の男達。
彼の妻を乗せて走り去るワンボックスカー。
「甲斐さんは奥さんの事を諦めていないのですね」
「何で俺の――。岡部か。……あのババァ。あいつこそ公安にでも入ってりゃいいのによ」
深刻な話をしていたはずの俺達はハハハと情けなく笑い声をあげ、それで少しだけ俺は落ち着けた。
「俺、警察に入ろうかな。そうしたら母に会えるのでしょう」
「そうだな。それで、俺のように公安になるか?」
冗談めかして返してきた彼の言葉に、彼が死人を運び続ける意味を知った。
地獄で彼を待つ妻に会うためだけに、彼は地獄に死人を運び続けているのだ。死んでいながら生き続ける彼女のために、彼女と暮らした時のままの悲しい部屋に住み続けて。
「お前は諦めるんだよ。親って子供の幸せだけを願うもんだろ? だからお前は諦めていいんだよ。諦めるべきなんだ」
甲斐は俺の頬に手を添えた。
俺は今は泣いてはいなかった。
それでもこの手が俺の頬にあるのは、俺を慰めて、俺を言い聞かせるためなのだろう。
人が寂しい俺は、この手を触れてもらう為に、はい、と答えるべきなのだろう。
だが甲斐は俺の返答も待たずに手を頬から離して、再び前を向いて車を発進させた。
車は止まった時とは反対に滑らかに走り出した。
俺達はその後は無言だった。
二人して同じ方向を無言で見続け、そして終にしなびた田舎駅の前に車は辿り着いた。
車がゆっくりと止まればお別れだ。俺は甲斐の無情な声で降りろと命令された。
「やっぱり乗ったままでいさせて下さい!」
俺は助手席にしがみ付いた。
こんなしなびた駅に降ろされたら、俺の帰京は絶対に不可能な気がしたのだ。
俺は箱入り息子だったのだ。
「無理です。こんなしなびた所から一人で帰れません」
「しなびたは失礼だろ。風光明媚なぐらい言っとけ。いいからとっとと車を降りろよ」
「いやだ! 降ろさないで」
甲斐にぐいぐいと押され、俺は今度は助手席の背もたれではなく甲斐そのものに手を伸ばしてしがみ付いた。
「お前は!」
「お願い! 甲斐さん!」
甲斐は大きく溜息を吐き出すと、俺の頭をがしっと掴んで、俺の唇に口づけた。
下唇を噛まれ、上あごを舌でそっとなぞられもした。
その口づけの仕方がとてもソフトで、俺の腰骨の辺りがきゅんとする事態に陥り、甲斐にしがみ付く両腕から力が抜けた。
いや、俺はもっと彼の唇を受けようと頭を傾けていないか?
俺は何をしているんだ!
気が付けば俺は車外に出されており、甲斐に財布とガラケーを次々に手渡された。
俺は体が何だかふわふわしている感覚でもあったが、生存本能は俺にするべきことをさせた。つまり、手渡された財布の中を見て、駅周辺を見回して、甲斐を見つめたのである。
小型犬のうるうるした瞳が欲しいと望みながら。
「何だよ。いいから行けよ」
足元がふわふわしている事よりも、俺の財布の中身の方が死活問題だったのである。
「お金を貸してください。財布には二千円も入っていないです」
貧乏生活が染み付いた俺は、現金を二千円ちょっとしか持たない。
使い過ぎの防止である。
大学の学費の二年分と生活費を、俺はなけなしの貯金から今後は払っていかなければならないのだ。俺の涙目が甲斐に通じたか、彼はチッと舌打ちをしてからごそごそとし始め、終には彼はヨレヨレの三千円を俺に差し出して来た。
「俺もこれしかねぇよ」
「千円だけでいいです」
俺は甲斐に二千円を返した。
そうして、俺と甲斐はそこで別れた。
スモークガラスという大きなワンボックスカーは犯罪用の車そのもので、真っ当な警官が運転している車の姿には見えなかった。
真っ黒な車は死者を運ぶだけの車だ。
彼は生きたままあの世とこの世を行き来している。
死んだ妻に会うためだけに。
俺の頬に雫がぽつっと落ちた。
「これはあんたの為だよ。ありがとう。俺はあんたのお陰で人の為に泣けるぐらいに人間に戻れたよ。人間に戻れたけどさ、ちくしょう。変な所を開発しやがって。ああ、もう! 悪戯が過ぎるよ!」
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